pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

読んだもの

 三連休中に読んだものの感想を書こうと思ったのですが、メインで読んだ『ロード・エルメロイ二世の事件簿』が、なんか、やっぱり、肌に合わなかった事実を確認する結果となり、感想はやめておこうと。物語の筋は別に面白いと思うのですが、設定とかね、もう自分はfate世界に入る事はできないのだな、と思いましたから。考えてみれば表題からして冗長性を感じて、地雷の気配を感じていたのかも。個人的好みでは『ロード』はいらねぇよなぁ、とか思っていたので。

 まぁいいや。んで感想はこっち。

 

スティグマータ(新潮文庫)

スティグマータ(新潮文庫)

 

  ようやく読めました。現在のところシリーズ最新刊ですね。相変わらず、ドロッドロな勝利への駆け引きというか、せめぎ合いというか、人の汚い部分や清々しい部分を描き切っているなぁ、と。

 今回は主人公が受難枠ですが、その為に男をあげ、スペイン美女とお近づきになっております。次回作があったら二人の関係が進展していて欲しいです。ま、やっぱ違った、といって別れている可能性もないというところがアレですが(オイ

 自転車ロードレースは不思議なスポーツですね。勝利する為にチームワークが求められるけれども栄冠に輝くのは一人きり。紳士のスポーツというけれども、プロとして食っていく為には、勝敗の駆け引きの鍵を握っているアシストを積極的に評価する必要性があるんぢゃないのかなぁ。現在はどういう評価基準なんでしょう?

 主人公がそつなく仕事をこなすとはいえエースとなるほど実力があるわけではなく、『アシスト』に徹している分、そのあたりが気になります。

 あと、年末年始に評判だったNHKドラマ『岸辺露伴は動かない』の第一話を見ました。原作の漫画は読んでいません。ジョジョも第三部までしか読んでいないけど、なんかそれっぽくって面白かったです。高橋一生という俳優さんは面白いですね。

 荒唐無稽な話なのに、妙に説得力があるというのも、漫画原作ドラマにありがちな滑りやすさもなく、いいドラマでした。二話以降が楽しみです。

 『麒麟がくる』は松永久秀グッバイと、それによる波紋が信長、光秀間の亀裂になったという感じ。信長の描き方がエキセントリックでセンシティブな感じで、今までの信長像から出られなかった印象がありますが、ここ数年の秀吉の描き方は陽気な反面酷薄な面があるようで、とても史実の秀吉に近い気がしますが、信長に関しては、まだまだドリームに包まれているみたいです。あ、家康もかな?家康=麒麟と言いたい演出が最初からあったからなぁ。

 さぁて、今夜は桃鉄しないで林譲治さんの新作文庫本を読み終えれるといいなぁ・・・。

映画三本

 三連休と申しましても晩に、父親が寝室に下がってから録画しておいた映画を見るので、実際には金土日の晩に見ました。洋画二本と邦画一本ですが、自分が洋画演出が(というか、なんだかんだいうて、ハリウッド映画が)好きなせいなのか、よかったな、と思うのは洋画、ハリウッドもの二本ですね。

 

  探偵ものというだけで録画したので、後からブルース・ウィルスやウィリアム・デフォーが出演していると知ったぐらいです。主演で監督された方は、あんまりに覚えていない人だた。物凄く泥臭いハードボイルドで、命の危険にさらされ、恩人は殺され、そして得たものはヒロインの身の安全だけ、というオーソドックスなハードボイルド。

 主人公がダウン症で、緊張すると突発的に叫んでしまう事を抑えられない、つまり目立つし隠密に不向きだし、探偵としてどーかと思う体質なのですが、記憶力は抜群にいい。理解力も。だから場数を踏んで緊張する事に慣れたなら、もうちょっとマシになるのかなぁ、とか考えたり。

 ハリウッド映画には良くある事ですが原作設定だけを用いて、話の筋は全然別物だそうです。監督の祖父にあたる方がニューヨークの都市再開発に関わった方らしく、その点を踏まえて、再開発にまつわる不正、陰謀の物語となっています。ハードボイルドっぽいのは、人間性では最悪の男が再開発に賭ける情熱だけは(権力、名誉の為なのですが)本物で、賄賂とは無縁なこと。悪い奴は悪事を全て行うと考える向きには納得してもらえないかも知れないけれども、本当の悪党というのは、自らの野心を達成する為に細心の注意を払うので、周囲に利益を振りまきながら、最もおいしいところをかっさらうものだと思っているので、わたくしの財産を増やす為だけの賄賂を許さないという局面もあるよなーっと思うのです。

 人間の両面を見たい方むけかなぁ。

 

  ポップでコミカルなんですけれども、実は深くて人間の暗闇を描いたりもしている作品ですね。解説している人たちが「こういう映画が日本でつくられないのは何故だろう?」って言ってみえましたが、同調圧力が強い日本ではやりにくいかと。あとヒトラーナチスの思想は完全に間違っていると言えるけど、日本の場合、思想というよりも政治家や軍部の無能や傲慢故に、という面があると思うので、一概に笑い飛ばせないのです。かわりに『この世界の片隅に』みたいな作品になるのではないかなぁ。信じていた正義、世界が、敗戦とともにそのメッキがはがれて、それに費やされた努力や犠牲を憤り、泣く。日本人の立場だとそういう感じになるのかな。

 予備役大尉が最後、主人公の少年を救うところが一番きました。たぶんこの人、副官と同性愛関係だったのではないかな?とか思わせるシーンがちらほら。だから同情的だったのかも。

 評価高いと聞いていましたが納得の作品です。

 あと、ハリウッド俳優に大根は少ないと思っているけれど、スカーレット・ヨハンソンは芸達者な人だなぁ、と思いましたね。

 邦画は『引っ越し大名』という作品を見ましたが、素材としては面白いし、筋立てもいいけど、なんだろう。上記作品に比べると一歩劣る感じがしました。個人の感想ですが、はい。

時間との勝負

 個人的な話です。だから今日はあっさり済ます予定。

 

  前巻よりも過酷な話が出てましたね。原作本で読んでいた筈ですが「え、そんなんで生き残れる?良く腹を下さずに生き延びれたなぁ」という話題とか、戦火に晒されながらの子育てとか。またインタビューして記事を起こす原作者の苦労、というか理不尽にさらされる様とかも描かれていましたね。

 戦争に、男たちの世界の中に『祖国防衛』という熱情のままに飛び込んでしまった「女の子たち」を他の人間たちが一体どんな風に見ているのか。「正しい戦争」とは異なった「体感の戦争」を語る事が一体どんな事なのか。現代でもツイッター上での炎上という事例で普遍的な問題、というか事象というのか、そういう気がします。

 そういえば亡くなった父方の祖父母に戦時中の話を聞こうとすると決まり文句は「戦争だから仕方ない」でしたね。大勢に流される事で自分たちを守る人々と言えますが、果たしてそんな言葉で非難する事が許されるのかどうか。戦争という異常な状況を受け入れる為に、人々は自分がしでかした非人間的な行為を正当化、正義化しようとします。それを否定しようとする者を全力で攻撃します。弱味、後ろめたさを持った人間ほど攻撃的になります。その激しい攻勢を耐え忍ぶ事を誰もができる訳ではありません。お話の中でもインタビューの後、記事として発表すると「私はこんな事を言わなかった。侮辱しているのか」と著者を攻撃する人々がいます。大勢が「正義」とする事に逆らう事の難しさを実感します。

 なんかね、この漫画を共産主義がどーのこーのと非難する人がいるらしいですけれど、その人は本を読んでいないし、読んでいたとしたら内容が語る事の本質を読み取っていないか、わざと目を反らして為に非難しているか、ではないかと思うのですよ。

 この本が語ろうとしている事はそんな事じゃない。本の意味は受け取り方次第ですが、アタクシはそう思います。

 

  年代的には上記の独ソ戦よりも十年近く以前の、イタリアはムッソリーニ、ドイツはヒトラーが政権を取り始めた時代ですけれども、まぁ同時代といえば同時代で、女性が望まれる職場ではないところで活躍するという事では同じかな。

 しかし主人公がイタリアと英国のダブルだからか、イタリアのムッソリーニは話題に上るけど、女に弱いけど憎めないおっさんとして描かれているのです。まぁファシスト党ナチスに比べればやっている事は、まだ穏健だったのかな?民族全滅とか画策していないから。まぁイタリアだから、その点は愛嬌があるって事かしらん。

 あともう一つスパイ・ファミリーを読んだけど、まぁ、そんなんで(オイ

 

まだ感想文は続く。

 その前に、昨日の長曾我部元親・盛親父子の評伝の感想に加えるつまりだったのが忘れてしまったので書き足し。

 『麒麟がくる』で信長が魔王化してきたなぁ、と。あと長女がしれっと荒木家に嫁いでいた。何の説明もなく。なんかね、脚本家の意図が自分の期待から乖離を開始したのではないかなぁ、と。細川藤孝との関係も不満です。もっとも親しい間柄である筈なのに、そして光秀以上の、隠れもなき教養人である細川藤孝の扱いが、微妙な脳筋になっているし、どちらかというと黒向きになってきているし(二人の別離が葛藤ドラマになるように仕向けて欲しいのだけど、なんか微妙になりそう)。

 あとね、自分が好きではない群衆演出(棒立ちというか、書割のようにMOBを扱っているように見える演出)が目立つし、あー・・・まぁいいか。録画しておいた奴を早送りで見ればいいんだから。まぁいいか。

 はい。気を取り直して読み終わったもの。

 

 物語の流れとしては蛇足感があります。独立した物語としてみれば、退潮著しいヴェネツィアの行方を、指導者階層の一人の視線から描きたかったのだな、と理解できます。ヴェネツィアフィレンツェ、ローマの三都物語として描かれた以前の構想では、主人公とその愛人の愛情物語と歴史物語が絡み合っていたのですが、この本における主人公は恋愛に対する熱情は既になく、というか熱情を向けるべき相手を失ってしまい、彼女に対する想い以上に他の女性を愛せない状況なので、愛情物語にはならない。

 となるとヴェネツィアと地中海が世界の中心を担っていた最後の光芒とも言える「レヴァントの海戦」にまつわる顛末を、当時ヴェネツィアを中心に活躍した芸術家、文筆家、医者などの人々の姿を描き出す事が、この物語の焦点であり、主人公の行く末を描くことが、この物語の目的だと思えます。

 一つの歴史が終わっていく哀愁を感じる物語でした。

 

幼女戦記(20) (角川コミックス・エース)

幼女戦記(20) (角川コミックス・エース)

 

  そんなに影響力があるかな、ド・ルーゴくんは。というのが率直な感想です。どっちかというとチャーチル枠を連合王国に登場させた方が・・・とは思うけれども、将校といえど一介の軍人。戦場でどうにかして未来を変える可能性は、こっちしかないか。エピソード的に。

 とはいえ、ここから帝国の凋落が徐々に、徐々に始まります。崩壊の始まりです。つまり、幼女戦記がお気に入りな理由です。はぁ。チート主人公の破滅物語ってよくね?(曲がってる

相変わらずなのですよ

 ま、この業界、季節の変わり目が繁忙期で、季節が変わり切ってしまったら暇なんですけれどもね。今日の予定の目途が立ったし、つまり時間があるから安心して日記にかかる訳ですよ。覚えているうちに書かないといけないからネ。

 

  結構前から図書館の本棚に並んでいたのですが、読んだような気がしていたので手を出していませんでした。ま、読んでみたら学術論文集が既読で、二次資料も駆使しての評伝は未読でした。こっちを先に読んだ方が理解しやすかったorz

 長宗我部家は片田舎の後進性故に・・・と通説で語られますが、そんな事はありません。太平洋航路を使えれば種子島にダイレクトに接続できますから、鉄砲の受容は早く、装備率も高いようです。その鉄砲故に勢力拡大したようですが、一両具足という一騎駆け、つまり重武装の武士本人しか軍役に出せない規模の、半農でやるしかない規模の領地しか持たない零細武士の比率が多かったので大規模動員は難しかったようです。最盛期でも一万超える程度の兵力動員規模。ただ一両具足という表現自体、江戸時代ぐらいから普及した言葉みたいで、同時代での使用例は一、二回ぐらいしか残っていません。

 信長との対応も一方的に信長に無理難題を、という訳ではなく、対三好家戦争という利害が一致すればどことも結んでいたようで、讃岐の三好勢力との抗争で毛利家とは結んでいましたが南伊予の領主が長宗我部家を頼るようになると、伊予守護家の河野家を内包しつつあった毛利家とはその方面ではギクシャクしています。織田家が毛利家と抗争するようになると、讃岐方面の事もあり毛利家と馴れ合いしている長宗我部家が織田家から不審の目で見られるのは当たり前です。

 また本能寺後の羽柴秀吉とは基本的に敵対関係でしたが、それも秀吉が信長の四国政策の転換・・・三好家を取り込み、その勢力を足掛かりにして瀬戸内海沿岸の四国地域を制圧する・・・を継承した結果、三好家と対立している長宗我部家としては容認できないもので、面白いもので小牧・長久手合戦後、孤立したとみるや長宗我部家はかなり譲歩して(土佐一国と南伊予の保持)秀吉との和睦を図っています。一度それで妥結する寸前までいったのですが、毛利家が伊予の領有を望んだこと、秀吉が毛利家との関係を重んじた結果、四国征伐が決定してしまいます。ただこれは長宗我部家の主戦派を黙らせる為に、戦場で敗北する結果を長宗我部家自身が望んでいた事もあり、最終的に長宗我部家は土佐一国の領有を安堵される降伏案を受け入れます。この戦略目標があったから調整型の政治家といわれる羽柴秀長が総大将として四国に赴いたのかも知れません。

 それに長宗我部家は実際の石高よりも低い石高設定をされています。軍役三千人というのが最初に決まっていて、それに合わせた表高報告だったようで、このあたり、豊臣政権としても降伏交渉寸前で第三者の思惑の為に決裂してしまった長宗我部家に気をつかっている感じです。江戸時代になったら土佐藩山内家は二十万石をこえる石高があった!!と幕府に申告していますから。ま、当時は石高で家格、席次が決まり、四国第一の大名の座を阿波の蜂須賀家と争っていたという面もありますけれど。

 通説で言われるお家騒動は、関が原合戦で盛親が「佞臣」の為に判断を誤ったという物語の為につくられているという感じで、実際は長宗我部本家直轄領に匹敵する領地を持つ大身家臣を骨抜きにするもので、これにより大名権力は豊臣政権が要求する軍役や賦役に対応できるまでになりました。

 まぁ、関が原戦、戦後処理は不運としかいいようがない。特に改易の原因は、どうも領地縮小で和睦が決まりかけたタイミングで国元で一揆が起こり、これで寛大な処置に落ち着いたらゴネ得と思われるので、改易という判断になったという・・・この後、お家再興をもくろんで活動するも低調。んで最後のチャンスと大坂の陣に豊臣方で参戦。活躍するも、耳目は真田信繁や後藤又右エ門に集まり知名度はいまいち。

 秀吉との和睦の顛末もそうですが、ここぞという時に運がない家なんだなぁ、と思いました。

 あ、えらい長い分量になってもーたナ。

今年もよろしくお願いします。

 エア読者さま方、お久しぶりです。十一日ぶりの営業日です。今年はメーカーの仕事始めもバラバラだし、刺繍屋さんもどうなのか分からないので、いまいちピリッとしない年初めなんですけれども、ま、こんなもんなのかなぁ、と。

 それなりに仕事はありますが、午前中に日記を書く時間は捻出しました・・・というか、他の仕事を後回しすればええやんけ、という非常に合理的な理由です(オイ

 まぁ二十分ぐらいで書き終えるから、もーまんたいよ、はい。

 この年末年始は、いつものように飲んだり食ったり、読書したりゲームやったり、動画を見たり録画していた映画をみたり三昧でしたからね。書くことに困りませんよ。十日間やっていたのはそれだけなのですから(吐血

 んで読み終わったものから、やっつけます。

 

クリミア戦争(下)

クリミア戦争(下)

 

  読み終えますとねー、現代でも変わらん問題があるのよねーっと思います。戦われた範囲は限定的ですが、その後の世界に及ぼした影響は多大で、特に緊急医療の分野は飛躍的に向上しました。助かる重傷者から治療する。助からない人に費やす時間や人手、薬品をそちらに振り向ける方が合理的であり、結果的に死亡者を減らすことになります。また病院の衛生関係もこの戦争から改善されました。

 生まれて確定していた軍隊の士官とそれ以下の階級の差も、役に立たない士官が及ぼした絶大な損害の反省から能力主義へと移り変わります。最大の変化はジャーナリズムが世論に及ぼす影響力をまざまざと見せつけた事でした。それによって軍隊の状況が多少なりとも改善され、つまりジャーナリズムの良い面が評価された戦争でもあったのです。

 とはいえ、現代までも続く人為的なトラブルは変わりません。人間は基本的になまけものであり、必要がなければいくらでも手を抜き、そして戦争はその手抜きが死に直結する。それゆえに非難されると解り易いのですが、日常生活の仕事場においては、命に係わる現場以外は見過ごされがちです。もっともよいのは手抜きをしても大過なく物事が処理されていくシステムを確立する事ではないかと思いますが、そうなると労働者の価値が相対的に低下し、「手軽に首切れる人員」が経営者が求めるものになってしまう。

 世の中は上手くいかないものなんだよなぁ、と。

 

  書いている最中に刺繍屋さんが来てくれた。ヨカタ。それはさておき今年発刊された本なので読んでみました。奈良時代聖武天皇の時代が、実は一旦確立した律令体制と藤原氏、阿部氏、多治比氏、大伴氏の四氏(壬申の乱やその後の律令体制確立に尽力した勢力だと思う)が中心となって天皇を支える体制が、天然痘の流行により四氏の議政官が半減以下になってしまい、政府を主導する経験者が決定的に不足した時期に、聖武天皇の配偶者である光明皇后とその縁者が政権を支えた時期、と捉える事ができるというが新しかったかな。当時の政府首班は橘諸兄であり彼は光明皇后の異父兄になります。

またその後政変を経て主導権を握るのは光明皇后の家政機関の長をしていた彼女の甥である藤原仲麻呂です。

 仲麻呂淳仁天皇の義理の舅(亡くなった息子の妻を淳仁天皇と娶せたので)でもあったので天子の師匠と位置づけられる太政大臣になりました。形態としては後の摂関体制に似ています。

 恐らく些細な事で淳仁天皇と彼を支える藤原仲麻呂と対立した孝謙太上天皇は仏教の師と仰いでいた道鏡に、その仲麻呂の役割を求めますが、宗教者である道鏡が主体的に政治的首班の地位を求めたのかは一次資料からはうかがえないようです。

 道鏡の採用という突飛な思い付きは、天皇の地位を血統ではなく宗教で保証、正当化、聖別しようとした孝謙、いや称徳天皇の思惑があったようです。それよりも以前に聖武天皇が出家したり東大寺大仏を建立したりと仏教の権威を利用しようとしていました。未婚の皇女、皇太女として即位した孝謙称徳天皇は自らの血統に皇位を継がせる可能性はありません。ならば血統ではなく宗教権威に彩られた非世襲天皇家を創設しようと考えてもおかしくはありません。ま、それは結局貴族たちの入られるところではなく、天皇ローマ法王のような存在になるという事はありませんでしたが。

 最初並べて仲麻呂道鏡を描くってなんだろう、と思ったのですが、制度はできたけど実際の運営で右往左往している過渡期で、天皇家の都合に振り回された『最高執政者』という矛盾した存在だったというのも、日本特有の事なのですかねぇ。

 あ、もう一冊書けなかった。それは明日に回します。

たぶん今年最後

 平日にのみ日記を書いておりますが、弊社(法律上は会社なので)の営業は本日まででございます。なのど年内は本日が最後です。そしてクリスマスでもあるのですが、だからといって特別な事もなく、平常営業です(あら

 

  苦い破滅を経験して、それを絶対禁止する組織と、魔法の可能性に惹かれて志し、禁止された可能性に手を出そうというもの。そういう二つの間で揺れ動く少年少女、人々って感じが本筋なのだと思うのですが、可能な事は結果を考慮せずやってもいい(それも成果)と言いきる連中と、四の五の言わずに危ないから禁止されている事はするな、と命じる組織って、どっちも地獄だよなぁ、とか思いますね。

 示唆的だったのが一度開発して売る事を諦めた「危なくない火」の魔法で、子供が本物の火を怖がらなくなるから公にするのをやめた、と言います。危ない魔法もそういうものとして体験させるようにしないといけないのではないかな?

 なんでもいいから従えって態度に自分なんかは一番反発を覚える質でして、理由を教えてくれない限りは従えないっていう、ああ、体育会系には馴染めない体質なのですよね。

 なのでねぇ。危ない連中と解っていても、反逆的魔法使いたちの方に心情的には味方しているのですよねぇ。ふぅむ・・・

 

Landreaall 36巻 特装版 (ZERO-SUMコミックス)

Landreaall 36巻 特装版 (ZERO-SUMコミックス)

 

  おがきちかさんもボドケやTRPGがお好きになったらしく、今回の特装版はグループSNEの方デザインのアナログゲーがついています。まだルールは読んでいませんが、なんとなーくこの間日記に書いた『我らが王の身罷りて』みたいに会話とミニゲームですすむケームのような気が・・・いや、キャラデザしてパラメータも存在したな。それよりも手間暇かけないといけないゲームかな?読みます。

 ただし残念なのは、日ごろアナログケーを遊ぶ人々の中にランドリ読者を知らないこと。以前、コンベンションで自分よりも熱狂的読者の方を発見したのですが、そのままその記憶は彼方へ飛び去りました・・・あれ?ランドリの事を説明するのって、どーするよ・・・まぁ考えるべな。

 本編は主人公DXの友人PTは、実は大変危険なダンジョンの階層を潜り抜ける事ができたと判明。しかしそれ以上に危険なダンジョン外部から入ってきた危険なモンスターの巣を突破しないと助けが来ている上層へたどり着けないということ。そしてなんかマイナーが大変危険な状況になって冷静なDXが感情リミッター解除してしまったところで次巻に続く、という感じ。

 そろそろ大詰めですかね、このダンジョンエピソードも。

 そんなところで本年度はお終いです。来年度は一月五日からの営業を予定しておりますので、皆さん、良いお年を~。そして元気に来年、またお会いしましょう。実際には会わないけどね(あ