pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

石田三成

 石田三成の論文集を読んでみたので、題名に困ったので、それでやってみました。

 

石田三成 (織豊大名の研究7)

石田三成 (織豊大名の研究7)

 

  だいたい知っている事が多かったのですが、彼が豊臣政権中枢で主導的立場になったのは、どうも豊臣秀次死亡後らしく、彼の領地から加増を受けて佐和山城主になったみたいです。それ以前はどちらかというと美濃で領地を持ち、城代として近江の領地を管理していたみたいです。まぁ考えてみれば彼、関ケ原合戦の時、四十歳前後ですよ。若いよね。

 あと、どうも徳川家康は秀吉死後、すぐに政権簒奪を狙っていた訳ではない、という説がありまして、豊臣政権首脳部や恩顧の大名たちの対立状況を見て、幼い秀頼が主導権を発揮できる訳でもなく、秀吉義弟(亡くなった家康後妻は秀吉の妹)の立場から豊臣政権を主導しようとしていたみたい、という説があるようです。初耳。いや、初見。

 それから関ケ原合戦は思ったよりも短時間で決着がついたらしいです。小早川秀秋は開戦早々に裏切って大谷吉継の陣になだれ込んだらしい。霧が深くて敵味方の区別認識のできない天候だったらしいですし、家康本陣から鉄砲を撃ちかけられても解らん状況だったとも言います。混乱している戦闘中、込み入ったやりとりなんてできるものでもないので、案外真相は、そんなところかも知れません。

 最近の石田三成は美化されすぎなところもあるので、研究がもっと進んで実像が知れるといいですねぇ。