pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

時代的にはかぶります。

 昨日書いたものと、ほぼほぼ同時代・・・あ、江戸時代初期まで入っているから少し違うか。

 

日本神判史 (中公新書)

日本神判史 (中公新書)

 

  裁判の結審に、熱湯やら赤くなるまで焼いた鉄やらを使用して、酷い怪我を負った方が負け、という話ですね。

 中世人の信心深さから・・・と片づけられる事が多い話なんですけど、意外に歴史は短期間しかないというか、熱湯を使用する湯起請は室町時代の百年、焼いた鉄を使用した鉄火起請は戦国時代から江戸時代初期までの五十年ほどの流行で途絶えます。しかし何かどっかで聞いた事あるな?と思うのは近代に入ってからその鉄火起請で活躍した人物を顕彰したり、怨恨話を伝えたりする事が流行ったようで、それが地域の伝説として伝えているところがある、という事ですかね。

 どちらが正しいかを神に問う神判は古代の盟神探湯から始まるのですが、その後平安時代は記録が途絶えます。なかった、という悪魔の証明はできないので、あったかも知れませんが、まぁ状況的になかっただろうと著者はいいます。

 その後、訴訟が多くなる鎌倉時代から参籠起請という、おこもり中に不都合な事、穢れが起こると神が認めなかったから敗訴、というシステムが始まります。これが結審するには七日ほどかかりますし、まぁ引きこもり状態では滅多に事故に合う事もなく、不都合な事も起こらないので被疑者無罪が多かったようです。

 その悠長な神判に我慢できなくなった人々が、熱湯に手を突っ込むというより過激な方法を選択するのですが、一方でこんな酷い事をすれば試した人間は労働できなくなる、という危惧もあり、最後の手段という認識だったようです。前提ではあくまでも証拠、物証による証明が優先され、それができない場合、どちらのいう事が信用できるのか?という証拠、物証よりも証言が重んじられた時代の事情を優先させたようです。

 しかしそんな事をしてもだいたい痛み分けみたいな判決が通る事が多く、判決を待つことができない災害や戦乱が増える戦国時代になると自力救済が優先されるようになります。

 鉄火起請はその流行が終わった頃、戦国大名による分国法が制定され、再び裁判で争いを決する風潮が戻ってきた時(と自分は感じました)、より過激に白黒つける方法として始まります。ま、常識的に考えてやれば唯では済まないので、湯起請では集落代表者が行う傾向がありましたが、鉄火起請では集落で養っていた流れものなど、立場の弱い人間に押し付け、彼や家族への補償を手厚く約束する事になります。

 しかし幕藩体制が確立すると急激に廃れます。ま、上からの強制力で結審されたら、それに抗ったりして鉄火起請するより我慢する方が被害が少ないもんね。

 んが、その後の社会の安定とともに、この時の争いの結果、集落の境界が近代にいたるまで決定され、その伝承が英雄譚、あるいは怨恨話として継承され、集落の再編を迫られ地域のアイデンティティを確認する作業が求められた大正、昭和期あたりに改めて発掘されたようです。

 ちなみにお寿司の鉄火巻は、鉄火場とも称された賭博場で簡単に食べられるようにつくられたもの、という説があり、神に判断を仰いでいた言葉が、賭け事になっちゃったんですねー、という。

 そんなお話でした。