pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

最後の戦国大名

 本来、水曜日の晩に読み終えようと頑張っていましたが、昨日の読了です。

 

  著名な父北条氏康の息子だけど、実質的に北条家滅亡時の当主という事で、江戸時代中期から評価が芳しくない北条氏政ですが、上杉謙信武田信玄、勝頼父子を向こうに回して、北条家の最盛期、関東最大の戦国大名になったのは彼ですし、この本を読むと父親氏康は勝負師で、自身が取り決めた制度に対しても大雑把に対処する性格なのですが、氏政はきっちりと制度運用を行う性格だったようです。

 また家中全般に指導を発揮するだけの行政、戦術の力量を持ち、また巨大な組織となった北条家の維持を最優先にした為に博打を打つという行為を控える性格であったようです。つまりその手腕は一言でいうと手堅い。

 これは物語的な好奇心や興奮を欲する人には、あんまり向かないタイプの人物像ですかね。しかし彼の性格が北条家の体質を決定づけ、尚且つ、強靭な耐久力を与えたとも言えます。

 良く言われる豊臣政権への対処ですが、詳細に見ると、これはもう取次に人を得なかった為の齟齬としか言いようがなく、そして北条氏政が『戦国大名』であったから招いた結末とも言えます。

 戦国大名とは、自身の組織する軍事力によってその勢力を保持、拡張する存在であり、自立を前提にした権力です。中央に無条件の裁定を委ねたりしませんし、殴られたら殴り返す事を当たり前と考える権力です。著名な名胡桃事件も、どうやら城内の内紛で片方が北条家を頼った為に、それに北条側が対応して出兵、接収したというのが真相のようです。ここで頼られた北条家が、あくまでも徳川家に属する真田家家中のトラブルとして、中央政権に報告してからその判断を仰ぐことを『豊臣大名』として行っていたら問題はなかったのですが、『戦国大名』として自身の武力によって対処し続けた北条家は反射的に接収へと動きました。ここのところを確認、そして念押しして周知徹底させるのが取次の責任なのですが、北条家の取次を務めた人たちはそれを行わず、それ故に秀吉から罰せられています。

 ともあれ必敗と現代の視点で見られている小田原合戦ですが、当時の北条家としては十分に勝算がある戦いでした。何より小田原城に五万余り主力を温存したままでの籠城戦であり、豊臣方はその大軍故の補給不足で、常に瓦解の危機と隣り合わせの、綱渡り運営でした。事実、最前線で指揮を執っていた北条氏政は最後まで戦う意思を失わなったのですが、内外の劣勢と家名存続を願ったであろう息子氏直の判断により、北条家は降伏します。氏政の抗戦意思を奪う事は息子でも難しかったようです。

 結局中央政権に抗戦した責任者として氏政は弟氏照、宿老松田憲秀、大道寺政繁とともに切腹するのですが、伝えられている辞世の句にはまったく後悔が見られないといいます。軍事力によってその存続を保証していた『戦国大名』が、その軍事力によって敗北した事に悔いはない、という事らしいです。

 もしも北条氏政がもっと高齢で、氏直が経験を積んでいたら、豊臣政権への対応も変わっていたかも知れません。また取次が能吏であったなら、何より紛争当事者の庇護者が関東取次役でもあった徳川家康てはなかったら(家康は過去の経緯はどうあれ、当事者の真田家の寄親であり、真田家を庇護する立場に当時あったので)・・・ま、でも中央の判断に全てを委ねるなんて危険な行為を北条氏政が承知するとは思えないし、これも定めなのかも。

 そういえば彼の曾祖父、伊勢宗瑞は最初の戦国大名とも言われたりしていますが、一族で最初と最後を飾るというのは、北条家が戦国時代を代表する存在であった、という事かも知れませんね。

 あ、ちなみにアタクシの中で、北条氏政と対立していた武田家や上杉家の評価は世間一般より低いです。特に上杉謙信は己の軍事カリスマと『関東管領』という室町秩序に依存した権威しか持たず、後継者景勝はそのとちらも持たなかった故に、何十年もかけて自分の立場を築かなければならなかったので、戦国大名という組織者としては、どうなの?とか思いますしネ。