pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

意外な史実

 ちょっと興味があったのでネ。

 

加藤清正 (織豊大名の研究2)

加藤清正 (織豊大名の研究2)

 

  加藤清正というと豊臣秀吉子飼いの武将の中では武功派と思いがちなのですが、実は彼の戦績は『賤ヶ岳の七本槍』以外は朝鮮侵攻まで目立った武勲はなく、実際に参陣した例も賤ヶ岳以外で記録が残っているのは、小牧・長久手戦のみで、しかも秀吉本陣に参加する百五十名あまりを指揮する、つまり秀吉旗本の一人。当然戦功はなし。

 こうなってくると賤ヶ岳の戦いは、本来は最前線で戦う必要性が低かった秀吉本陣の兵まで追撃戦に投入した激戦であった事が解りますね。

 それはともかく、では加藤清正は何をやって出世したのかというと、秀吉蔵入れ地という大名領内に設定された秀吉に年貢を納める領地の代官をやったり、検地をやったり、はたまた改易された大名の領地を後釜が決まるまで管理したりと、つまり吏僚、文官の役目を果たしていたという事です。のちに政敵となる石田三成と同じですね。

 そんな四千石あまりの領地しか持たないかれが一躍十九万石(領地は四十倍以上の増加である)の肥後北部の大名に抜擢された理由は、はっきりしません。考えられるのは、九州征伐前哨戦で失敗し改易された讃岐を支配していた尾藤氏の領地を受け取り、二ヶ月ほど管理していた手際を評価されたこと、同じように太閤検地に携わった武将たちのうち、彼だけが極端に領地が少なかった。また肥後の国一揆鎮圧後、改めて肥後の検地を行ったのが彼と小西行長で、事情を知っている彼らに肥後を任せたのではないか?と推測されます。

 しかし無茶苦茶な人事ですよ。百五十人しか部下、というか兵士を引率していない男に、十九万石・・・だいたい一万人の軍役を課せられるような領地を与えるなんて、まずもって支配するスタッフが存在しないというか、それを捜すところからやらなきゃならない。そして失敗すれば尾藤氏のように改易が待っている。この緊張感が加藤清正を律し、秀吉の命令に沿うように活動し、軍事行動を行うようになったのでしょう。

 朝鮮侵攻の先陣は彼と小西行長、他何人かですが、彼と小西行長平壌からは別行動をとり、加藤清正は北部から明への侵攻ルートを探せという秀吉の命令を忠実に実行し、現在の北朝鮮、中国国境付近まで侵攻しますが、小西行長は最初からムリと考えていたらしく、はかばかしい戦果を得ていません。このあたりの軋轢がのちの関ヶ原への伏線になったようです。

 あと農林業が主の肥後では朝鮮侵攻の主力武器である鉄砲、弾薬の調達が難しく、大豆を高値の釜山で売りさばいたり、小麦粉を生産してマカオ、マニラのスペイン人やポルトガル人に売り、鉛や硝石など弾薬の原料を入手していたようです。

 他にも関ヶ原戦の後、徳川の覇権確立後、豊臣秀頼徳川家康の会見では秀頼を守るように参加したとか通説ではいいますが、実は紀州徳川頼宣が彼の婿であり、婿に付き添う形で会見に参加したのが実情。つまり完全に徳川方として参加しているのですね。

 吏僚出身の彼ですが、朝鮮侵攻、関ヶ原、それに続く徳川、豊臣の並立時代と緊張感に満ちた時代を生きたために、常に臨戦態勢の領地経営をせざるを得ず、その為に領地は疲弊し、また直轄地以外の大身家臣は独立性が高く、戦時の即応性は高くとも当主の命令が貫徹しがたい状況であったようで、彼の死後、ついに徳川家光の代替わりを契機に加藤清正を祖とする大名家は、領内の疲弊を理由に改易されます。

 統治畑から立身した彼が戦時体制からの転換を図れなかった・・・まぁ、彼が死んだ後の事ですから何ともできなかったようですが、幼い後継者しか立てられなかった事が原因かも知れません。