pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

麦酒のみにしておけばヨカッタ・・・

 昨夜の飲み会です。飲み放題で他の酒を飲むとアレなんで、いつも麦酒に絞るのですが、ほら、昨夜は雨が降って肌寒かったぢゃないですか。色々試してみたのですよね-・・・あかんかったが(あ

 さて、そんな事は忘れて読み終えたもの。

 

石田三成 (織豊大名の研究7)

石田三成 (織豊大名の研究7)

 

  江戸時代の関ヶ原合戦の評価の為に、なんか西軍の実質総大将とか、豊臣政権の官房長官みたいにみなされる石田三成ですが、実態としては、はやりというか何というか、奉行の一人であったということ。そして関ヶ原合戦の対立構造である『西対東』というおおよその図式は秀吉生前から存在しており、東に徳川家康、西に毛利一族で、彼らがそれぞれ日本の大名を統率するという構図。三成は毛利一族と近しく、また家康が秀吉近親(妹婿である)という立場から重んじられ、政治的な経験も豊富である事から豊臣政権内で主導権を握り始めます。

 毛利側からするとそれを阻止するという思惑がありますよね。まぁ関ヶ原合戦自体をなかった事にしたい江戸時代の毛利氏、彼らとつながる諸大名、何より江戸幕府の思惑から『石田三成主犯』となった訳ですが。

 また三成自身、必ずしも秀吉の忠実な『駒』であった訳ではなく、時に方針に逆らったり誤魔化したりもしていたようです。あと、島津氏って「九州最強」とか「イカレてる」って言う感じで蛮勇そのものと評価される現代ですが、実態としては経済的に豊臣大名としてはやっていけないほどの後進性で、家中のとりまとめ、税の取り立て、管理、財政全般が未熟であり、石田三成を始めとする豊臣政権の指導、てこ入れを受けてもいわゆる『近代化』をなしえなかったそうです。

 まぁ軍記ものとか、風聞とか、説話とかが先行してしまって、一次資料に基づく研究がそれほど進んでいないようですからね、島津さんは。

 ともかく『義』に生きたとか賞される事の多い三成ですが、自分からすると、それなりの勝算と、それなりの野心の元、政敵『徳川家康』討伐を目論見、家康ほどの求心力を得なかった為に(毛利氏も含めて、それほどの求心力がなかったと言わざるを得ない。岐阜城陥落前後の関ヶ原周辺領主の寝返り具合をみると。何より小早川秀秋は開戦早々大谷吉継の陣に突入したという説が有力視され、合戦自体午前中で勝敗が決したらしい)、敗北したという。そうなると物語的につまらなくなるから、史実に忠実というのも考え物なんですよねー。