pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

キリシターン

 基本的にアタクシは一神教を信仰する事ができない人なので、こういう人の気持ちは解りかねるのですが、読んだ事のない人の事だったので興味を持ちました。

 

高山右近─ キリシタン大名への新視点

高山右近─ キリシタン大名への新視点

 

  実名が重友とされる事が多いのですが、古文書の署名は『重出』とも読めるらしく確定ではなく、今のところ学術的には通称名の右近で呼称している様です。

 摂津の土豪階級出身で父親は松永久秀に見いだされ、その後、和田惟政麾下に。惟政戦死後は惟政息子、惟長と主導権争いをして、これを追い落としその領域を継承。荒木村重麾下になり、彼が織田信長方から毛利=足利義昭方に寝返ると、信長からキリシタンに対する優遇措置だか何だかを条件に村重方から離反します。

 本能寺の変後は秀吉麾下に入ったようで、最も信頼される吏僚大名のようだったのですが、九州征伐後の反キリシタン政策に従わず改易。ただ秀吉自身は高山右近の才能を評価していたようです。この後彼は加賀前田家預かりとなりますが、晩年になり江戸幕府キリシタン追放令に引っかかり、国外追放。マニラで客死、というのがだいたいの人生。

 対照的なのが小西行長で、同じようなキリシタン大名であり石高とかも同じぐらいの規模でしたが、彼は淡泊なのか、キリシタンであるよりも秀吉配下である事を明言したようで、九州征伐後肥後南半国を与えられます。これは来るべき朝鮮、大陸侵攻に際して海外勢力であるキリシタン南蛮人との連絡、交渉が可能という事が理由の一つらしく、もしかしたら高山右近が秀吉配下よりもキリシタンたる事を選ばなかったら、加藤清正に与えられた肥後北半国は、彼に与えられていた可能性があるのではないでしょうか?清正が肥後北半国を与えられたのは、かなり急な話だったようですから。

 他にもキリシタン大名の記述や、高山右近が関わった城や城下町建築、茶の湯の事などが書かれています。

 追放されていなかったら高山右近、もっと活躍した人だったかも知れませんねぇ。