pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

読めた

 もう一冊読み終えたので、二冊の感想が書けるのかしらん?

 

  こういう組み合わせで論じられる事がほぼない『養父子』です。それもその筈、毛利家の隆景と豊臣一族の秀秋、立場が違いすぎます。

 『小早川家』という存在が、実は源頼朝側近であった土肥実平の系譜(血統的には別だが養子縁組で財産継承している)らしく、南北朝期までに多くの分家に別れていましたが、宗家などの有力な家は室町幕府将軍に直接仕える奉公衆という家柄になりました。また瀬戸内海の水軍にも影響力を及ぼす、つまり、毛利家などの国人領主よりも格上と表すべき家柄でした。

 元々毛利元就は妻の実家である吉川家へ次男元春を送り込む事には積極的でしたが、小早川家へ三男隆景を送り込む事には消極的でした。ほぼ隣り合う吉川家へは影響力を行使しやすいのですが、海に面した小早川、しかも奉公衆となれば気位も高いしやりにくい、と。しかし大内義隆の尼子攻めに従軍した結果、小早川家当主は戦没しており、また小早川家自体が大内、尼子の間を揺れ動く『腰の据わらない』勢力であった為に、大内義隆は強引に隆景を養子に入れて、毛利家の影響力で小早川家を自陣営につなぎ止めようとしました。

 そう考えれば元就の正妻腹で大内義隆の『隆』字を嫡男隆元だけでなく三男隆景ももらってますね。そして次男元春は毛利家分家を示す名前であったりします。そこのところが毛利家とは別の家格の高さなのでしょうか。

 その為小早川隆景は成長するまで、毛利家と一員よりも、毛利家よりも家格が高い小早川家の当主である事を意識し、長兄隆元を蔑ろにする場面もあったらしく、三兄弟はギクシャクしています。毛利家一門と宿老としての意識は長兄死亡後、元就の復帰から持ち始めたのかも知れません。当主が幼い輝元ですからね。さすがにヤバいと思ったのかも。

 織田家との戦争が始まる前から中央との交渉は小早川家が窓口になる事が多かったようです。これは奉公衆小早川家の人脈を使って、中央の情報収集を行っていた側面があると思います。隆景本人の資質よりも、そちらの要因が大きいと思う。

 また毛利家を守る事を第一義としていた事が裏目に出て、織田家との戦争で主力を繰り出し境目の領主たちの利益になる姿勢が少し鈍かった事を見透かされて、宇喜多家に寝返られてからは守勢に立たされます。同じように周囲に敵を持ちながら、常に主導権を握る為に積極的に調略や攻勢に出る織田家と、そこが命運を分けたような気がします。まぁこれは両家の根拠地の状況の差かも。織田家本国の尾張は東は同盟国の徳川家ですし、濃尾平野は現在でも(ビル群は別として)周囲に山陰が見えない広々とした地域です。翻って中国地方ですが、二十年以上前、備後(広島県東部)で暮らしていた事があるのですが、川の両側に平地があり、そしてすぐ山地が迫るという地形です。広島市もちょっと北に行くとすぐに山地にぶつかるイメージがあります。また毛利の同盟国は当時遠国ばかりで、西の大友家とは緊張が絶えず、全力で東に向かう事が難しい。

 結局毛利は羽柴秀吉に屈する事を選択しますが、それが小早川秀秋の誕生にもつながりますね。秀吉政権の構想で毛利家に中国地方と北九州を任せ、大陸侵攻の備えをさせる、その為に毛利家宿老で当主叔父の小早川隆景を秀吉政権代官のかたちで筑前筑後の領主にしたと。この後、秀頼誕生により幼年の秀頼が豊臣家を継ぐ際の障害にならない為に、一時は養子扱いをしていた秀秋を小早川家養子に、つまり豊臣一門の直系から外す作業が行われたようです。ちなみに毛利家には既に輝元養子で秀元が存在しており、いかに秀吉でもその養子を反故にして秀秋を押しつける事はできなかったようです。

 関ヶ原での『裏切り』、として夭折故の汚名返上ができなかった事で、小早川秀秋は必要以上に愚かである事が、強調されますが、有力家臣と当主の軋轢は、当時の大名家では普遍的に見られた事で、それだけで彼を評価する事はできず、また朝鮮戦役でも前線に立った事はなかったようです。秀吉縁者のティーンズを最前線に立たせたらなぁ、事故でもあったら怖いもんな。

 関ヶ原では秀秋本人の意思、というよりも家臣団の総意で(小早川家生え抜きや毛利家出身の家臣は秀秋の代ではほとんどおらず、逆に徳川家康から紹介された連中が主導権を握っていたらしい)、早くから東軍なる事は決まっており、最近の説では関ヶ原合戦開始当初から東軍として参戦し、半日で勝敗が決する『大手柄』を建てたようです。

 しかし大酒がたたり、領国統治に意欲を見せるも二年余りで死去。不運な青年という気がしますね。本人の資質どうこうというよりも。

 ああ、書きすぎた。もう一冊は明日にします。