pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

ピザ、か

 母親がドミノピザを食べたいと言い出しまして、アタクシは今夜はスパイスカレーをこさえてみるつもりなんですけど・・・まぁ酒の肴が一品増える感じで覚悟するか、という感じでございます。かつてあった1kgチーズピザはもう終わっているようですが、ニューヨーカーなんちゃらってのがあるので、それにするつもり。まだ予約注文もしていませんが。

 こういう事を日記に書くという事は親父が飲みに行くって事なので、暇な時間を発見して日中に日記を書いている訳です。んで読み終わったもの。

 

橘諸兄 (人物叢書)

橘諸兄 (人物叢書)

 

  考えてみれば奈良時代において最長の政権首班は彼ではないでしょうか?母親県犬養三千代が義父藤原不比等との間に産んだ異父妹である光明皇后聖武天皇の信任を得て出世。性格的にユーモアを解する調停型だったらしく、その事が聖武天皇主導の当時の政局にプラスに働いたようです。ただ末期には光明皇后と疎遠になったらしく、彼女が甥の藤原仲麻呂を信任するようになると次第に退潮気味になり、また聖武天皇崩御後は隠退してしまいました。

 彼が聖武天皇一家の身内であり信任を一身に受けた結果、彼の一子である奈良麻呂は急激な昇進を遂げ、それが周囲との軋轢を起したようです。また聖武天皇生前譲位とはいえ、女性皇太子であった孝謙天皇の存在は不安定であり、貴族間にも違和感めいた不安があり、橘奈良麻呂自身もそれを口走るほどだったようで、庇護者を亡くした彼は謀反容疑で処刑されました。

 末端皇族から臣下に降り、生前に初めて正一位という最高の位階を極めながら、急速な勢力拡大が妬みの対象になり、失脚。その後の子孫もなかなか振るわない、というのは藤原仲麻呂の子孫にも言えますかな?ただ橘氏平安時代嵯峨天皇皇后を出して、一時政界主導権を握るまで復活して、源平藤橘の一つに数えられるまでになりますが。一番地味ですが。

 奈良時代聖武天皇という個性が良くも悪くも大きな足跡を残した時代で、橘諸兄もそれに従い、疑問を持ち、という政治人生を歩んだみたいです。あ、聖武天皇の迷走めいた遷都騒ぎは、仏教的思想に基づき、外港難波宮、大仏の所在紫香楽宮、都恭仁京という体制を築こうとした説があるようです。財政的な問題で失敗して、平城京で大仏建立を改めて行い、現在の奈良の観光資源が出現する訳ですが。

 その後の聖武天皇が企図した政治的なものはだいたい後継者に比定されたりしてますから、まぁ、死者は生者には絶対勝てないんですなー、と思ったりしたり。