pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

文章もの

 連休中に読み終えた本、文章ものっていうか研究書、一般書の類いですね。

 

悪党召し捕りの中世: 鎌倉幕府の治安維持

悪党召し捕りの中世: 鎌倉幕府の治安維持

 

  扱っている年代の古い順に書くと、読み終わった逆順になる事に気付くという。いや、別にいいのですけれども。

 治安維持分野から見る鎌倉幕府の権利、というか仕事というか、まぁ武士の権限拡大史みたいなものです。

 朝廷は古来から徴税と治安維持を司ってきましたが、次第にこれを外注化し、それぞれを権利として請け負わせる形をとるようになりました。それを担って豪族たちが所謂武士化をしていく事になりますが、保元、平治の乱以後、唯一の武家の棟梁となった伊勢平氏畿内の治安維持機能を担った事が、広域勢力の始まりで、最初『反乱軍』から始まった源頼朝の鎌倉勢力は、打倒ではなく、やはり請け負う事で朝廷の機能をになうようになりました。ただし最初は東国に関する事のみを担っていまして、他地域、畿内は朝廷が直接担っていました。というか今日的に言うなら東国は鎌倉に下請け、現地は孫請け。その他の地域は現地は下請け、みたいな?

 しかし承久の乱によって朝廷の軍事力が敗北すると、鎌倉幕府はその請負地域を全国に広げました。それはある意味限れた特権身分であった御家人が全国に広がる事を意味していましたが、特権である為に(徴税権を確保しやすいとか)数的には少数派であり、元寇の危機を機に、非御家人をも幕府の統率、庇護下に入れて、混乱の収拾を図ろうとしました。それは既得権益を守る派閥から攻撃され、失敗します(霜月騒動)。

 飢饉や相続細分化による経済危機。それを原因とする治安の悪化。しかしその治安を維持する御家人の数は増えず、また経済基盤である領地も細分化され、度重なる出動に困窮化していき、鎌倉幕府体制は急速に矛盾を抱え、遂には後醍醐天皇の倒幕に乗っかる形で武家の反乱を招き、滅亡に至ります。

 建武政権を圧倒した室町幕府は最初こそ鎌倉幕府の統治スタイルを踏襲しますが、観応の擾乱以後、武士たちを自陣営に引き込み、つなぎ止める事を優先させた為、全ての武士に統率、保護、恩賞をもたらすようになります。観応の擾乱を含む南北朝の騒乱は、そうやって迅速に武士たちの欲求や不満を満たし、不安を解消する事ができた側が勝利する事ができた、と言えるでしょう。

 まぁ『武家政権』と言いながら鎌倉幕府は『全国の一部』しか統率していなかったにも関わらず、日本全国を担当するようになり、内部矛盾から崩壊。それを解消する事ができた室町幕府、とも言えるのではないでしょうか?

 こんな感じで後、二冊?・・・ちょっと厳しいかしらん。続きはまた明日。