日記を書き終わった後に眺め終わったものですからね。
昨日は短めに切り上げましたが、そういえば名古屋市内でもガソリン代が北部と南部では異なっているとか、そういう話をすれば良かったなぁ、とか今更ながら気付きましたが、いかんせん。昨日は艦これの新艦娘掘りに気が回っていましたからね。インターバルの二十分が過ぎたら周回に出なきゃと焦っておりました。おかげさまでイベントに入手できる新艦娘は全て手に入れましたから、つまりイベントは終わりましたから、もう気楽なものです。・・・資源回収しなきゃって思うけれども(あ
今回は梅雨だか夏だかよく解らんタイミングでのイベントでしたが、名古屋が梅雨明けする前に終わって良かったなぁ、とか思っていたら梅雨明けと見まごうばかりの晴天になりましたよ、昼下がりから。でも気象庁さんは、まだ梅雨明けしたと、おっしゃらないんです。なんでしょうね?まぁ梅雨明けしたと言った後から連日雨という年もありましたからね。用心深くてもいいのでしょうけれども。
さて眺め終わったものを紹介しませう。
今から四年前に林原美術館で整理中に発見された、幕府奉公衆にして長宗我部家の姻族、また明智光秀重臣斎籐利三親族の石谷(いしがい)家の古文書集です。原本を写真で写し、読解できる漢文で印刷されております。読み下し文はなしで解説とかコラムとかがついています。つまり、主に研究者向けです。
漢文を読むことは、無理矢理やれなくもないですが(本当に無理矢理てけとーである)、労力の割に正しく読んでいない結果に終わる事は目に見えていたので、解説文とコラムのみ読みました。そっちの方が面白いし。
『本能寺の変』の謎に迫る新資料!!って言葉で新聞でも紹介されたのですが、大きな変更点はないです。ただ長宗我部家、織田家、足利義昭周辺、また三好家に関する文章もあり、生々しいやりとりが見て取れます。
一番興味を惹いたのは土佐一条氏と長宗我部家の関係で、摂関家の一条氏のうち、地方の領地経営に下向して、そのまま地方権力化したのが土佐一条氏なのですが、その当主一条兼定を追放し、その息子内政を変って擁立したのが長宗我部家で、それは京都の一条本家の意向であり、またそれを支援する織田信長の意向でもあって、その繋がりで長宗我部元親は織田信長と修好し、『信』の諱を息子にもらっています。
その後、一条内政が長宗我部側に対して反旗を翻して、それを察知した長宗我部側が一条内政を追放したところから関係が悪化。ただし石谷家文書から、長宗我部元親は最終的に信長の判断に従うと連絡をしています。
恭順を示した長宗我部。にも関わらず織田信孝を総大将とする四国討伐軍が大坂に集結。みたいな事を書かれていますけど、個人的にはどうかな?とも思っています。四国討伐軍の詳しい兵数は解っていませんが、参加している武将が率いている軍勢を足していくと、どうも一万数千ぐらいだろう、と。長宗我部を本気で攻め滅ぼしに行くにしては、いささか中途半端な軍勢です(後年秀吉は総勢十万ほどで一気にけりをつけている)。なので織田方としては、やはり恭順の意を示した長宗我部家は暫定配下と見なし、他の国人領主に対する威嚇を中心とする外交を行い、場合によっては国人領主攻撃を辞さない態度で四国に派兵したのではないかなぁ?とか思ったりします。ま、実際には渡海せず、本能寺の変の後は山崎の合戦に参加する訳ですが。
そんな長宗我部、織田の事情に触れられたのが面白かったですねぇ。