pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

久しぶりに三国志系の本を読む

 最近中国史関係の本を読んでいないのですよ。資料の突合せ、検討という作業が進展しないとか、政治的に正しい歴史認識とかが出回って、現実の歴史に迫るという作業が乏しいような気がするのですよ。つまり、研究進展がない気がするという。

 んで、この本は経済史的な観点を加味して考察されているらしいので、期待して読んでみました。

 

劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』 (文春新書)

劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』 (文春新書)

 

  物語的な史書が多く、それを突き合わせて史実を探る事が『解釈違い』的な様相になってくると、同時代資料と断言できる考古学的発見物は強いですよね。あと、生産力からの推測で、どれぐらいの経済力だったのか推定できるというのは確定じゃないけど、なんとなーくのイメージができます。

 後漢末群雄たちの動向も、物語通りではなく、袁術は飢饉で衰退、袁紹は死後の後継者争いで曹操に敗れたという展開。

 んでこの本の本題は劉備諸葛亮のこさえた蜀漢の、実際の国力がどれくらいだったのかを冷徹に描き出しており、それによると・・・六・七人に一人が兵士や官吏という非生産人口になっちまうという・・・うえ。軍事優先の経済を導入して混乱を起こさず、反乱させずに統治したというところが、『独裁者』諸葛亮の敏腕ぶりと言えるのではないでしょうか。

 軍事の才能が乏しいといわれておりますが(自分もそう思っていますが)、戦闘に参加できる兵力が三万とか四万とかいうレベルなのに、その倍の兵力を投入できる曹魏に戦いを挑むとなると、兵力分散を誘い各個撃破を狙わなくてはならず、その為の策謀をしますが、まぁ失敗。それでも何とか『戦闘国家蜀漢』を維持していました。

 戦闘って博打的な意味合いがあるのですが、諸葛亮はそれをしませんでした。博打に負けたら総崩れになるのが目に見えていたというのもありますが、やはり時勢を得ずに野望を遂げようとする人間の、無理やり加減というのがあるかなぁ。大勢が曹魏にまとまる中で、それでも天下を狙うという、一種空気を読んでいない劉備諸葛亮の姿勢を「解っていない」というべきなのだろうか?それとも己の野心に殉じた事をたたえ・・・るのはないな。だって、その為に蜀漢やその周辺の人々は経済的にも生活的にも不安、不安定、困窮と苦しめられていたのですもの。

 劇作家ブレヒトの言葉をもじって著者はこんな事を書いてみえます。「英雄のいない時代は不幸だが、英雄のいる時代はもっと不幸かもしれない」・・・ブレヒトの著作物、自分はそんなに読んでいないからアレですけれども、なんかね、歴史を読むとそういう感慨を覚えるのですよ。