pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

読み終えたー

 今日は仕事がまったりだったので読み終える事ができました。良くないけどヨカッタ。

 

平氏が語る源平争乱 (歴史文化ライブラリー)

平氏が語る源平争乱 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者:晋, 永井
  • 発売日: 2018/12/18
  • メディア: 単行本
 

  歴史は勝者の記録が多く残る傾向がありまして、治承寿永の乱は源氏、源頼朝側からの視点で語られる事が多い・・・とこの本を著者は指摘していらっしゃいまして、ならば視点を敗者の平氏から見たらどうなるのかな?と思い読んでみました。

 まず、源氏の挙兵は以仁王事件の余波であり、平氏にしてみれば地方に逃げ延びた関係者の追捕、つまり後処理に過ぎなかったのですね。ところがそれに現体制の利権からあぶれた武士が結びついて反乱となり、その同時多発の反乱に、たかをくくっていた平氏は後手に回ってしまったと。また律令制の国家動員によって地方の武士をかき集め、精鋭である平氏家人の直属軍を中核に討伐軍を編成しましたが、その武士の参集を待っていたが故に戦機を失い、そして前線指揮官に戦争経験がなく、平氏一門と言えども分家筋の若い人々を任命してしまったが為に統率をとる事ができず敗退してしまったと。

 その後、京都防衛戦と位置づけて公家や院に仕える武士も動員し、また平氏宗家の一員である平知盛平重衡を総大将に据えた為、近江や美濃での反乱には対処が可能となり鎮圧する事に成功しました。

 ところが飢饉によって西国は経済的に厳しく、東海道甲斐源氏南関東源頼朝に抑えられていた平氏は、中立であり知行国がある北陸を生命線と考えていたのですが、越後からの追討軍を撃破した木曽義仲の軍勢が北陸道を制圧していくと危機感を感じ、またもや北陸に所縁がある分家の人々を指揮官に据えて遠征軍を出す失敗を犯します。結果、統率が取れず、経験不足故の失敗を犯し敗北。この結果平氏は西国へ安徳天皇三種の神器を携えて落ちる事になるのですが、分家に対する不信感から有力分家に情報を伝えず、彼らを脱落させたり、戦力として役に立たない状態にしてしまいます。

 それでも、木曽義仲以仁王の忘れ形見に皇位継承させる事を求めた事が、後白河法皇の不興を買い、追討の手が緩んだところで態勢を立て直し、あまつさえ安徳天皇の身柄と三種の神器を利用して和睦を試みます。ただ、安徳天皇上皇とし後鳥羽天皇への譲位で皇統の一本化を図りたい後白河法皇と、あくまで安徳天皇の帰還を望んだ平氏は妥結する事ができず、戦いは木曽義仲が滅亡した後も継続。

 あまり目立たない源頼朝の名代の指揮官源範頼は、儒学者の家で育成されていた為か兵法を学んでいたようで、手堅い戦略で平氏と対峙しますが、戦局は派手な行動で戦機を掴む源義経によって動いていきます。ただ義経に押されっぱなしに見える戦局ですが、義経はどうも軽率な人のようで、特に屋島の戦いでは突出し過ぎて、奇襲に慌てふためいた平氏が水上に逃れたので勝てたような印象ですが、三百騎あまりの小勢である事が判明すると弓矢戦で圧倒します。騎馬で接近して射る東国の武士よりも、水上の遠距離戦が主体である西国の武士の方が弓矢戦では有利だという事で、翌日になり院や公家の影響下にある武士が援軍としてやってこなかったらどうなっていたか分らなかったそうです。

 また壇ノ浦の合戦でも士気の上がらない四国の水軍が決定的な場面で裏切った事により平氏軍は内部崩壊。平清盛妻が安徳天皇と神剣を持って入水自殺してしまった為、安徳天皇の身柄と三種の神器の奪取こそが第一目的だった勝利目標は達成できない事になりました。

 源範頼は恐懼し大江広元を介してしか頼朝に報告できなかったと言いますが、義経にはそのあたりの配慮がなく、その政治能力のなさがうかがえます。

 また平氏の一門は美学によって行動しがちで、死に場所を求める行動が強く、結果として有能な指揮官が内乱中盤で失われ終盤での人材不足に悩むという・・・なーんか、第二次大戦の日本軍みたいだな。あれか。旧日本軍は平家物語で美学に陶酔しちまって自殺によって責任をとるという、一見責任を取ったように見えて実は部下とか組織に対する無責任をやらかしたのかね?

 そう考えると平氏も何百年もあとに罪深い事をしちまったみたいに見えますね。

 いやぁ、ほんとに義経って周囲を見ない、一緒に行動すると疲れる感じの人ですね。