pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

同年代以下の研究者さんの論述

 日本史の論文・・・というよりも新書とか読み物で、五十代から下の年頃の研究者の論述って結構面白いなぁ、と。いたずら心があるというか、何というか、つまり面白いと思う訳ですよ。

 

  副題からすると悲劇的と思うかも知れませんが、言ってしまえば『強か』であり、もっと踏み込めば『時代に迎合した結果、苦労せずに美味しいとこをいただく』という感じの人々が、南北朝を経験した天皇家や公家って感じですね。

 面白いな、と思ったのは北朝天皇たちの考えが「クロ以外はクロではない」で、南朝天皇たちは「シロ以外はシロではない」と著者の方がとらえている事で、この場合のクロシロは色ではなく、自分にとって悪いか良いか、という区別です。グレーゾーンを許容する事で生き延びた北朝は強かですが、受け入れる事ができなかった(否定するところにアイデンティティがあった)南朝は衰亡の悲劇となります。物語的には南朝の運命こそ支持されるでしょうが、実際の身の上となれば北朝の在り方の方が自分は好きです。最近の風潮はどうも南朝的でシロ以外は許せないというものの声が大きいようです。というか、そういう尖がったものが突出して目立っている印象があります。出版社が歴史ものについて「あたりまえなものではなく、耳目を引くトンデモものを」と研究者に新書依頼する時に言いだす(事が多いらしい)と同じ文脈だよなぁ、とか思います。

 戦乱を経験して、実際に土地管理している者の発言力が強くなり、利益の上がりを上級土地支配者である公家(天皇家を含む)が回収する事が難しくなったので、それを保証してくれる足利将軍家に丸投げする。代わりに天皇家は『鎌倉幕府の後継者』としての正当性に乏しい足利将軍家に対して官位や儀式の席次を優遇して、『他の武士とか異なる高貴な武家』としての足利将軍家を演出する事で権威を付与し、武士たちの支持を集めやすくする。というのが室町時代のシステムなのですが、実力に裏付けされたものではない儀礼上のものなので、将軍家と同じように南北朝期は各地の支配の正当性を持っていなかった守護たちも継続は力なりで世襲により正当性を獲得すると、今度は実効支配を確実にしなければならない。つまり足利将軍家に奉仕して正当性を保証する必要性が減少した為、応仁の乱を契機に大名たちは在京ではなく在国を志向するようになり、当然幕府、いや朝廷の儀式費用を負担する事も減りました。それで武家に費用調達を頼り切っていた朝廷は重要な儀式(葬儀や即位式すら)行えなくなります。

 この問題は武家の主権者が最大の武力を獲得したものとなるまで続く事になります。支配の曖昧さが時代とともに減少していく、みたいな印象もありますね。

 あと面白いなぁ、と思ったのは足利尊氏、直義の評価で尊氏は「戦にだいたい勝つ」で直義は「戦にたまに勝つ」という表現。確かにそうだよなぁって。戦の兄に、行政、事務方と弟って住み分けが表現されてて面白いと思いました。

 

  連邦軍なのに乗っているのがジオングという逆転状態の戦場。イオン・フレミング最後の輝きみたいな、彼の味方が誰一人戦死していません。あれ?今までとちゃうな。次巻から死闘が開始されるから、最後の幸せ嚙み締めなよって感じなのかしらん。そう思う自分の心は真っ黒。