pomtaの日記

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短すぎる人生

 この本のテーマでしたね。

 

戦国大名・北条氏直 (角川選書)

戦国大名・北条氏直 (角川選書)

  • 作者:黒田 基樹
  • 発売日: 2020/12/18
  • メディア: 単行本
 

  著者の黒田さんは、小田原北条家関係を中心に膨大な著作を現わしていらっしゃる、現代の碩学とも言える方なのですが、今まで伊勢宗瑞、北条氏綱北条氏政と北条家当主の評伝を書かれています。一番著名な氏康がまだなんですが(たぶん書かれると思うので)、まさかその前に最後の当主北条氏直の評伝が書かれるとは思いませんでした。彼が当主の時代は、隠居である父氏政が外交、軍事を主導していた時代で、もちろん最終決定権は当主たる氏直にありましたが、その意思決定に至るまでご隠居たる氏政の影響力は強いものだったと思います。徳川家康の絶縁も辞さない説得に応じて、豊臣政権に服従する事を北条家は選択しますが、その決定後、氏政は「ほんとに隠居する」と宣言しています。これが対外印象の変更を狙ったものか、感情的な不服だったのか判りませんけれども、この決定には当主氏直の意思が感じられると評しています。

 氏直は家康の婿であり、小田原合戦の降伏時も、本人の覚悟では自らの命と引き換えに城兵の命乞いを行っているのですが、秀吉から見れば家康は妹婿の義弟。その義弟の婿となれば疎かにはできず、彼の助命は既定路線であったと言います。しかし戦争の責任を敗者には負ってもらわなければならない。その為に隠居氏政、一門筆頭の叔父氏照、家臣団筆頭の松田憲秀、大道寺政繁は切腹となりました。とはいえ斬首ではないので(罪人としての処分ではない)北条家の名誉を尊重したものではあります。

 関東に百年近く君臨した北条家の家臣縁者は膨大な数であり、その長い歴史で従属国衆の離反はあっても一門や直属家臣の造反は、一、二度しかなかった強固な結束力を持つ北条家臣団です。なおかつ、その領地でも領民の大規模反乱は一度も起こらなかった。その統治システムがいかに有効に機能していたかを証明する、つまり優れた統治機関だった訳で、これを離反させる事は統治上の問題として避けなければなりません。その為、北条氏直には政治的復活は問題の発生がない限り既定路線でした。

 自分は一万石の豊臣家旗本としての復活が限界だろうな、と思っていたのですが、どうもその後に氏直に伯耆国一国を宛がう予定があったらしく、これは家康娘婿であると同時に北条家臣団の積極的な取り込みを図りたいという秀吉側の事情もあったようです。明治初年の石高ですけれども伯耆国って24万5千石なんですね。軍役計算すると1万2千ほどの軍勢を指揮する義務がある地位です。

 氏直本人の軍事指揮能力はたぶん可もなく不可もなくという評価だと思います。大負けはした事はないし、勝利は臨機応変の指揮ではなく数を整え、それで圧倒する形で、戦術家というよりも軍政家の手腕ですよね。しかし一万をこえる軍事指揮権にはまさにその能力が求められる訳で、それを運営する北条家旧臣の力も当然入っていたでしょうね。

 しかしそんな豊臣大名として復活する事はありませんでした。政治復活を果たし、妻とも再会してまもなく疱瘡によりこの世を去ってしまうからで、もし彼が生き延びていたらどうなっていただろう?と考えると、その後家康の娘が再婚した池田輝政の生涯を知ればだいたい推測できますよね。戦国時代関東の雄だった北条家が、徳川家姻族として西国の重要拠点に国持大名として君臨し江戸時代を過ごしたかもしれない。

 そういえば先祖の伊勢宗瑞は備中国の出身でしたね。不思議な運命のめぐりあわせがあったかもしれない、と思うと、何だかニヤニヤしてしまいます。

 氏直死後、その遺領は叔父北条氏規の、つまり傍系に引き継がれますが、北条本家を証明する古文署や宝物は引き継がれませんでした。むしろ妻であった家康娘、督姫が再婚先の池田家にもっていったようで、その意味でも池田輝政北条氏直の後釜であったと思えますね。

 そう考えるのは面白いですねぇ。