pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

クーポンきた

 今流行の、あのクーポンです。しかし予約開始は来週月曜日からだし、なーんか感触としてすぐに接種できるという訳でもなさげです。やり方が悪いのか何なのか分かりませんが。現在仕事が開店休業と言えるほど暇なので、この期間に接種を済ませたいものですが、こちらの都合には合わせてもらえないかも。仕事が忙しくなってから接種ってのも、できれば避けたい・・・

 さてそれはさておき読み終えたもの。

 

  日本史上最初の女帝、という事になっておりますが、その前の皇位継承(厳密には違うけど、まぁ言いやすいので)の形態が判明していないので、ひょっとしたら継体天皇以前に女王として即位した存在がいたかも知れませんが、記録の残っている最初の女帝って事で。

 この人、もっと評価されてしかるべき人だと思うのですよ。継体天皇位の皇位継承は複数の大王家が経験と能力と、婚姻関係によって選ばれていたみたいで、つまり世襲と選挙を交えた継承方法。それが現在右巻きの人々が『万系一世』と誇らしげに言えるようになったのは継体天皇を起点としてその息子欽明天皇、その子世代の中でもっとも長期政権を運営した推古天皇が存在した事が、この系統の大王家が特別な家と認識された結果なので。

 これ以前の皇位継承は、経験(四十歳未満は幼いと言われていた。平均寿命四十歳と推定される時代において、『長老』と称えられなければ大王になる事ができなかった)と軍事的能力が問われており、軍事的称号として中国王朝から倭王と将軍号が授受される事が条件でした。倭の五王ですね。

 その系譜が途絶え外来とも言える越前からの来訪者である継体天皇畿内の複数ある大王家勢力と婚姻した事で王朝と呼ばれるものが出発するのですが、その複数ある大王家を経済的に継承したらしいのが蘇我氏であり欽明天皇時代から蘇我氏と複数の婚姻を繰り返し、そして近親婚を繰り返し、特別な家系を人為的に作りあげていったと。

 その中で短命なもの(用明天皇)、治世者として不適格とされたもの(崇峻天皇)の後に、当時大王家最長老であった推古天皇にお鉢が回り、同世代の蘇我馬子と歩調を合わせて安定的な政権運営を三十年以上行ったのですからね。当時は男系、女系ともに尊重される双系相続でありだからこそ近親婚が繰り返された(父系のみならず母系も特別でなければ認められないので)ようで、その結果早死にする者も多く、大王家と蘇我氏の一体を理想と統治形態としていた推古天皇蘇我馬子の望みは水泡に帰します。

 まぁ聖徳太子と言われている厩戸の系統が彼らにとっては希望の星だったのですが、どうも厩戸王は配偶者として蘇我氏出身者ではなく膳氏という別系統の人を重視したらしく、つまり大和盆地ではなく難波あたりの別勢力みたいな感覚になってしまって、それで皇位継承から外された、みたいな。それよりも画期的なのは先王の遺言が継承を確定したという事。それまでは群臣というか豪族たちの会議によって誰が継承すべきか決定されていたのに、大王家の人間の意見が特別視されたのですから。

 あと、『聖徳太子』の事績とされている仏教関係の事も、推古天皇がやった事が多かったみたいです。たぶんコレ、日本書紀プロパガンダの影響が大きいんだろうなぁ。

 文献資料がそのように改ざんされている可能性があるので同時代資料である考古学的な発掘資料が期待されています。古墳の発掘調査が進めば、もっとこの時代の事がより解るのに、と思うのです・・・