pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

夕立な日

 朝から大気の状態が不安定なので、一日中夕立のような天気になりそうです・・・って、それって雨の日でいいぢゃん(あ

 さて昨日書くことを諦めた、たぶん長文を書いてしまいそうな本です。

 

  物凄く誤解されていると思うのですが、別に顕如が率いた本願寺教団は信長を宿敵としていた訳ではありませんからね?いや、上記の画像を呼び出した時に真っ先に出てきたのが「信長が宿敵」とかいう文言だったので。

 そういう言葉が慣用句になっちゃったのは江戸時代に東西に分裂した本願寺教団が自らの正当性を訴えるのに、石山合戦で自派どれほど過酷な戦闘を行ったか、と主張した為であって、石山合戦中は別に分裂していなかったので、そもそもプロパガンダに過ぎないのですが。

 では何故足掛け十年もの間、結果として信長と戦う事になったかというと、そもそも本願寺教団は加賀一国を領有する『大名』の顔を持ちながら、自らを領域の『王』とする戦国大名ではなく、政治主権者を支持して自らの教団を存続させる事を第一目的にしているのですよね。

 その政治主体者が一人の足利将軍であるかぎり本願寺教団は、その命令に(なるべく)従うようになるのですが、その政治主体者が分裂していると、教団と近しい存在と同盟し、対立者と敵対する、という事になります。顕如法主であった時代は三好三人衆、長年加賀越前の国境で争い、和睦が成立した朝倉氏の方が近しく、足利義昭と彼を軍事的に支える信長とはそれほどでもなく、足利義昭と政治的に対立した三好三人衆から請われれば、そちらとの縁を根拠に挙兵するというのは理解できる論理です。

 その際に敵対者を『仏敵』とし『教団の存亡』をうたうのは慣用句みたいなもので、門徒の危機感を煽り、動員しやすくする為ですね。誰が敵対者になろうと相手を『仏敵』と言います。別に信長が叡山を焼き討ちした事は関係ないみたい。

 なので三度の和睦が結ばれていますが、その都度、その都度、対立する根拠が異なります。二度目は相婿関係の武田信玄を軸にした同盟を根拠に挙兵。三度目は追放され毛利氏に保護された足利義昭を軸にした同盟を根拠にした挙兵で、いずれも石山本願寺の籠城戦ができなくなったと見通しがなされると和睦している感じ。

 では長嶋や越前一向一揆の信長の殲滅戦はどうなのか?と言いますが、この一揆勢も一枚岩ではなく、信長方に最後まで抵抗した勢力が殲滅されています。また法主の言葉だからといって一揆を構成する門徒も無条件で檄文に応ずる事はないです(だからこそ『仏敵』という剣呑な言葉を使っているのかも)

 あと、最終的に本願寺は大坂石山本願寺を退去する事で存続が許されますが、これは当時本願寺法主が公家に準じる立場にいるものと理解されているのも大きいかと。基本的に世俗権力者に対立する事を目的にはしていない宗教団体ですし、政治主体者を信長と認めればそれに従うのは自明の事でもありました。

 東西に分裂したのは、言ってしまえば本願寺家内部のお家騒動だしね。それが元で後世まで信長のイメージが『苛烈』となってしまったのは、ちょっと気の毒です。