pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

第二次大戦の話よりも先に

 こちらが読み終えたので。はい。

 

 『まむし』で有名な斎藤道三を含めた親、子、孫の四代、つまり美濃を制覇した一族の話なんですけれども。なんで斎藤道三一代記ではないかというと、同時代資料が乏しい事、そして彗星のように現れ、消えていった一族なので、それを取りまとめて論じた方が解りやすいよね、と読んでいて思いました。

 まず最初は道三の父親、長い新左衛門尉。出身は山城国らしいけれども、どの階級出身なのか判りません。美濃にやってきた動機も、日蓮宗の僧侶時代に、美濃の長井氏出身の同僚に連れられてやってきたとか。そして美濃守護代斎藤氏の家臣であった長井氏の中で次第に頭角を現します。当時、美濃で実権を握っていたのは守護代斎藤氏でも本家ではなく、その代理として台頭した斎藤妙椿の家で、どれぐらいかというと応仁の乱後期の西軍の中心人物であり和議が整って没落する事になった足利義視父子を美濃に引き取るぐらい。んでこの斎藤妙椿の系譜の一族が、六角氏との戦いの最中に主要メンバーが全滅するという状況に。長井氏の中枢でも穴が開き、それを埋める形で台頭したようです。道三が長井規秀として跡を継いだ時は斎藤氏家中の筆頭みたいな立場に。

 その後、美濃守護土岐家の内紛において頼芸方の中心人物して主導権を握り、守護代斎藤家の一族に連なる事になり、斎藤家の係累、土岐家の庶家などを、どうも人には言えない方法で排除していったようです。

 また追放された頼芸と敵対する土岐一族と越前朝倉、尾張織田が連合して攻めてきた時も、道三の主導で撃退しています。守護土岐頼芸よりも頼りになるところを見せつけた道三は、ついに主家を追放。美濃国主になります。

 ところがどうも戦に強いけれども強引な手法の道三に対する不満が鬱積していたらしく、これに嫡男なのに道三からの評価が芳しくない息子利尚が反旗を翻します。敵より少数でも戦に勝ってきた道三は当初これを侮った節があったのですが、戦場で相対した利尚の采配に「さすが道三の息子」と唸って敗死します。

 利尚の時代は、この道三の政治的後継者と自負する織田信長との抗争となります。戦国大名としての統治機構を整え、自らを美濃守護土岐家を超越した、足利一門の名門一色家に挙げて、一色義龍と名乗ります。

 ええっと斎藤氏時代の名乗りは最初は利尚、父親と対決する時は父殺しが孝行になったとかいう逸話の主、范可、父に勝利した後は高政としますが、『斎藤義龍』という名乗りは同時代資料にはないそうです。これは敵対した織田信長勢力からすれば、斎藤氏は同じ守護代の家格だけれども、一色氏は足利一門の名門で遥か上の地位。敵対者がそんな名乗りをする事は認められない、という事で信長公記とかでの記載、斎藤義龍が広まってしまったと。彼らが滅んでしまって織田家の系譜が天下人になりましたからね。

 一色義龍はまさに織田信長のライバルと言える手腕でしたが、病弱であったのか若くして亡くなります。その後をついだ龍興は十五歳ぐらい。一応義龍の残した家臣団もいますが織田方の猛攻を凌ぐので精一杯。しかし信長が攻略に六年ほどかかっていますから、十年に満たない義龍の治世でも結構しっかりした組織を作り上げたみたいです。資料が乏しいので具体的には解りませんが。

 おそらくなんですけれども、外交的に孤立しがちだったから最終的に敗北したのではないかなーっと。美濃の周囲を見ると北の郡上や飛騨の勢力とは安定。ただし北の勢力は小規模。東の遠山一族は織田、武田に両属状態で、まぁ中立。西の浅井家は義龍最初の妻、龍興母の実家だったようですが、死没、もしくは離縁しており、しかも信長妹が浅井長政に嫁いでいるので、どちらというと敵対。ならば、という事でその浅井と対決している六角家と結ぼうとするのですが、観音寺騒動で弱体化している上に「得体の知れん家と結婚するなんて、前代未聞!!」とか言われる始末。つまり積極的に援護してくれる同盟勢力に恵まれなかったという・・・

 家を滅ぼすとだいたい暗愚扱いされてしまうのですが、年若くして家を継ぎ、最終的に朝倉家の客将として対織田戦に参加して亡くなってしまう龍興・・・死亡時の名前は一色義紀かな。少し気の毒かなぁ、と。

 もう少し記録が残っていて、子孫がそれなりの地位に上っていたら、評価されたかも知れない。こういうのって残酷だよなぁとか思ったりしたり。あ、道三の身の振り方が子孫に祟ったという見方もあるかな。やり過ぎたとか。