pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

時間が押しております

 いつもの事です。日記を上げたら午前中に伺わなければならんところへ出かけます。

 んで読み終わったものです。

 

 改定再版と言うべき本のなので、最近って記述されていても十年ぐらい前かな?というお話がちょいちょい出てきますけれども、あんまりキニシナイ。

 源為義、義朝、頼朝、義経という平安末期に活躍した河内源氏の面々について論じたエッセイ集とでも言うべきもの。自分からすると評価し直しって感じです。

 その粗暴さの為に、いまいちうだつが上がらない印象の為義は、院政期に最高権力者の院からは排斥されましたが(父親義家は武士として恐れられたけれども官僚としての評価はいまいちで、復権の機会を与えた義親は反乱を起こし失望されるありさま)、彼は摂関家に近づき、その権威を持って東国や畿内、九州の、交通の要所を拠点化、地方武士の組織化を自分の息子たちを派遣してやっていました。なので義朝の活躍は為義の下ごしらえがあってできたという評価。

 源氏の反乱や為義自身の犯罪者を匿うという行為も、地方武士の利害擁護という観点で理解すると納得できます。問題は、彼が従った摂関家の忠実、頼長父子が院を中心とする朝廷主流から外れており、為義の行為が問題視された事。その忠実、頼長父子が保元の乱で討伐対象になった為、自らも滅んでしまった事ですかね。

 為義長男の義朝は嫡男ではなかった為に、南関東武士を組織化した力(財力とか)を背景に婚姻を梃に院に接近し、父親とは別系統で出世を果たし、院側近を輩出する熱田宮司家を母方に持つ頼朝を将来公卿にまで昇進する事が可能な地位につける事で、一世代ほど遅いけれども平家と同じように栄達の階段を登ろうとします。んが、陸奥、武蔵の知行国主である藤原信頼につき、金や軍馬調達をしやすくしようとした人脈が仇となり平治の乱で没落、死亡。

 頼朝は義朝や母方実家の力でついた兵衛権佐という地位が、現代風に言うとキャリア官僚の入り口みたいなものだったので、他の源氏諸氏よりも抜きん出ていた為に、関東武士の支持を得やすく、院の武力として自らを定義し、行動し、なおかつ武士たちの要求にもこたえた為に源平合戦の勝者となりました。ただ頼朝が武士たちを御家人化した『御恩と奉公』の論理がその後の武士、そして日本人の意識を縛り付けたという評価も。平安時代までは双務的な、つまり双方に利益がもたらされるから主従関係を結び、基本的には個人契約であったのに、頼朝以降は片務的、主君の一方的な都合を押し付ける形の主従関係が成り立つようになる・・・と言われていますが、本格的にそうなるのは江戸時代以降だと思いますけれども。

 義経は政治オンチではなく、また奥州藤原氏そのものではなけれども、南奥ナンバーツーとも言える佐藤氏の姻戚になって、その支援を受けていたのではないかと言います。他にも義経に従った郎党は頼朝支配からはみ出た武士たちが多かったのではないか、とも。

 とはいえ、最終的には『鎌倉殿の13人』に描かれる感じで、あんまりはずれはないかもね、と自分は思ったりします。

 あ、もう一つ書くべきものが書けなかったけど、分量がいい感じになったので、出かけます!!