pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

年度替わり

 そんな感じなので午前中に日記は書けませんでした。しかし午後からの仕事はなかったので落ち着いて書けますね(イクナイ

 読め終えたもの。

 

 『鎌倉殿の13人』で親しい友人として設定されている北条義時三浦義村を見て、創作かなー・・・とか思っていたら、実は政争を潜り抜けて主導権を握っていたのは、鎌倉殿後家の政子と義時、義村のトライアングルであったと知り、ちょろりと驚いています。大江広元かと思っていたけれども、三浦義村の軍事力が政子、義時姉弟を支えたと考えると納得できるかも。初期の北条氏は軍事的に、さほどでもない勢力だし。

 義時と政子が亡くなると、トライアングルの相手は北条泰時、時房へ変わります。義時弟の時房の初名は時連だったのですが、それ、三浦一族の佐原氏が後見して授けた字だつたらしく、ここでも北条、三浦の結束が。とにかく義村という男は、鎌倉殿身内として社会的地位を上昇させた北条氏に協力する事で三浦一族の地位向上を図ったようで、全面的に義時、泰時父子に協力しています。この辺、足利義氏にも通じるぐらい徹底している。

 義村息子の泰村も北条得宗家に協力していたのですが、三浦一族の中で、北条氏ではなく鎌倉将軍家に接近して勢力拡大を図ろうとした一派(弟光村など)がおり、結果的に泰村の心中などお構いなく戦いになってしまい滅亡します。どれぐらい泰村が及び腰で一族が結束できなかったか、というと、かつての和田合戦では和田義盛一族とその姻族、縁者など南関東の武士を二分するような勢いでの軍勢が結集し、大掛かりな戦いとなったのですが、三浦氏滅亡の宝治合戦では最終的に数百人が自害して終わります。和田合戦は数日、宝治合戦は6時間ほどで決着、という時間を見ても兵力を結集できたように思えない。

 和田一族はほぼほぼ歴史の表舞台から消えますが、三浦氏は前述の佐原氏が三浦の名跡や立場を受け継ぎ、鎌倉時代どころか室町、戦国期まで継承されます。ま、伊勢宗瑞に滅ぼされてしまいますが(あ

 有力御家人を排除して権力を独占したと言われる北条氏ですが、そんなに単純な話ではなく、そもそも小規模な、組織力のない武士であったのですから、協力者が絶対必要です。それが三浦氏であり足利氏であった訳で、足利氏が紆余曲折あれど鎌倉時代を通じて有力御家人の地位を保った挙句に室町幕府の最高権力者になったのですから、三浦氏も上手く一族内の争いを克服する事ができれば、そんな未来もあったかも知れませんねー。

 そんな事を踏まえつつ、『鎌倉殿の13人』を楽しみたいです。義村理論が義時や視聴者に理解できないのは、承久の乱後に戦後処理をした義村の考えが理解できないと日記に書いた公家の考えを反映しているようですよ?後世から見ると「そうだったのかー」ですけれど当時の常識的にはありえない選択をしているらしい。義村、侮れぬ・・・