pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

二冊読めた

 どっちも新書版なんですけれども、読後の満足感は・・・うーむ・・・

 一つ目。

 

 個人的には浅草寺あたりから説き起こしてくれるかと思っていたのですが、『江戸』ですからね。浅草寺は近世になって江戸市街に飲み込まれたという事で、そんなに多く取り上げられていないです。

 秩父平氏の一派である江戸氏の本拠、苗字の地としての江戸から始まっています。どうも川の渡し、陸路と水路の結節点として始まったみたいです。現在の江戸城・・・皇居の位置に城を築いたのは太田道灌が最初、みたいな事を言われていますけど、その前から拠点はあったようです。ただ町屋、城下町の形成は紆余曲折があったみたいで、川が近いから、その流路の変更とか、城の大手口の変更とかで変遷があったみたいです。最初は東西道沿いの平川、次に川に面した大橋宿・・・そんな感じ。決して鄙びた寒村という訳ではないですが、大発達した都市部、という訳でもない。

 小田原北条氏時代は、城代に遠山氏を置きながら、時には古河公方足利義氏の御座所になったり(もっともご本人は長期滞在していない。御座所予定地として長らく指定されながら政治状況の変化で他の地を転々としていたらしい)、隠居した北条氏政が領地東方の対外対処に利便性を求めて江戸城にいたりしたそうです。徳川氏と同盟を結んでからの北条氏の主敵は『東方之衆』と言われる北関東の諸将なので、それに対応する為、なんでしょうかね。隠居=引退ではないのが当時の風習で、隠居が亡くなったり、大病して寝込まない限りは当主見習い期間とでもいう感じなので、北条氏直は問題が対処しやすい内政とか徳川氏への対応とかしていたのですかね。

 徳川時代に入ると、豊臣政権期は政権の指定によって関東各地に徳川家臣も配置され、江戸への入部も家康の発案なのかどうか・・・しかし家康が政権をとると天下普請となり、それまでは関東の城と同じく土の城であったものが、高石垣を備えた現在の姿に変貌したと。しかし城の土台を固めるべき良識な石材を得る事が難しく、遠く伊豆でとれる安山岩とかを使用したとかで、そっか、関東で石垣が少ないのは、材料調達が困難であった事も一因だったよねー、と。

 冒頭に江戸幕府成立はいつなのか、という問いかけがありましたが、家康が征夷大将軍に就任した時の政庁は伏見だし、徳川家の政治は秀忠の江戸で行われても、天下支配は家康の居所で行われていたようだし、制度的には豊臣家滅亡後に確立したみたいだし、今のところ鎌倉幕府室町幕府の成立みたいに議論が深まっていないので、江戸幕府・・・徳川幕府の成立は昔ながらって感じですかね。

 あ、もう一冊の事を書く余裕が・・・あっちは少ないのだが・・・ええい、書いちまえ。

 

 幕末の四賢侯の一人で、公武、雄藩との折衝で汗をかいたけど、明治維新後はあんまり報われなかったみたいな感じの人です。真面目な勉強家で、あんまりフィクサーに向いていないのに、その役割を担っちまったみたいな印象。

 あと、この時期の話を読むと良く思うのは『報連相』が不十分・・・これはあれですか、トップダウンになれた複数の人が主導権を握っていたので、つまり命令すれば部下が実行してくれる事に慣れすぎていて、根回しとか、世論形成とか、そういう事を感覚的に思いつかないからなのかな。すれ違いで仲たがいする事が多い事。幕末の目まぐるしい敵味方の分裂、結合って、そういう事が原因なのかな、と思ったりしたり。

 そんなお話でした。