pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

青年家康

 日記書こうとしたら荷物が入荷し、それがひと段落したらアパートの住民にトラブル発生。なんやかんややっていたら随分時間が経過しております。警察、気に聞かせたつもりで県警の生活安全相談窓口に電話したら、110してくれーって。とりあえず110すればいいのかね?緊急性のないものは遠慮してくれって、あれは救急車だったっけ。

 気を取り直して読み終わった感想文。

 

 家康前史の松平家の話と、今川家から独立するまでの松平元康→徳川家康の軌跡ですね。前にも読んだかも知れないけれども、三河の豪族の頃の松平家は賀茂姓を称していたようです。有徳者だから、神社関係と何かあるのでしょうかね。源氏っぽい匂いを立たせるのは、家康祖父の清康からで、この清康は若いというよりも幼くして一家の主にならざるを得なくなった人で、そのきっかけは清康父の松平信忠が権力集中を焦って反感を買ってしまったからだそうです。

 その後清康は対抗馬・・・というよりもそちらの方が主流派に近い叔父信定とつばぜり合いを開始します。手法は戦で領土拡張・・・ではなく、争乱に仲介として介入してトラブルシューティングし名を揚げるというもの。それが三河物語で戦働きと説明されたみたい。んでそのトラブルシューティングの一つとして尾張守山に出陣したら噂からの誤解で家臣に暗殺されるという悲劇。仕掛けたのは叔父信定か、信定と姻戚を結んでいた信長ぱぱんの織田信秀だったか、とかなんとか。

 残されたのは十歳の家康ぱぱんの松平広忠ですが、さして時間をかけずに岡崎を奪還しているのは、岡崎松平家を旗頭に結束する人々が結構多いという事ですかね。この広忠の前途も多難で、なんでやねん!!って思うのですが渥美の戸田家と結んで西の織田、東の今川と対立する立場に。織田の攻勢にさらされ、同盟相手の戸田は今川に攻められ没落。広忠はここで今川傘下に入る事を選択。戦闘をしている織田と結ぶよりも、そりゃそうだわな。

 幼い家康が織田方に取られた経緯は・・・通説とは異なるぐらいしか覚えていない(オイ

 その後、織田信秀は美濃での大敗もあり退潮。それに合わせて攻勢に出る前に広忠は病死・・・運がない。んで今川方によって織田方となっていた安城が陥落し城主である信秀息子信広と交換で竹千代は帰還しますが、そのまま駿府へ。これが『家康は幼い頃、今川の人質だた』という話になるのですが、実際は異なり西三河の最前線に位置する松平家を今川家親類衆に取り込み、つまり重要な味方とする為に竹千代=家康を養育、庇護するのが目的。城代として今川家臣は岡崎に入りますが、松平家臣は顎で使われる存在ではなく、双方合意の上で政治は行われていました。最前線の味方を困らせてどーすんねん、という話ですわな。

 桶狭間の敗戦後も『松平元康』は織田方に寝返る事はせず、織田方と交戦していますが、これが独立に踏み切るのは今川氏真三河への援軍ではなく、関東の、長尾景虎出兵の方に対応したから。つまり危機に陥った三国同盟一角の小田原北条家への援軍を優先してしまったのですね。自分の危機的状況は前年から解っているのに助けてくれない。安全保障できない大名家は見限られる。という事で松平元康は織田方との和睦に踏み切ります。織田信長にしてみても先代信秀が切り取った三河の領地を確保しているし、足利義昭の上洛戦催促の件もあり、主敵を美濃一色家(斎藤義龍で知られている)に絞った事により和睦は成立。ここから戦国大名徳川家康への一歩を踏み出す、という訳で。

 一応徳川家康への改名は祖父清康が世良田氏を名乗った事から新田系の源氏得川氏を意識しているのですが、三河守任官の時は京に将軍が不在で源氏として推薦してもらうず、仕方ないので近衛前久に推薦してもらうために藤原姓を称しているとか。

 この辺、てきとーというか融通無碍というか何というか、ま、もらえるもんなら何でもいいって感じですねー。

 この本の通りに来年の大河ドラマが描かれたら面白いだろうけれども、どかな?