pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

元祖御三家

 昭和五十年代までは、なんちゃら御三家という言い回しで、とびぬけたもの、トップスリーみたいな表現が流行ったと思うのですが、アレって江戸時代の徳川御三家が元ネタなのですが、その徳川御三家がネタとして拾ったのが室町時代の御三家だったという奴で、それに関する本です。

 

 歴史の教科書にはまず出てこないフレーズですね、室町時代の御三家なんてのは。しかし室町時代の六代将軍義教の時には確立していたそうでして、いずれも足利一門の名門ばかり。

 もともと鎌倉時代でも足利氏当主の庶長子が先祖で足利姓を名乗っている、つまり幅広い足利一門の中でも宗家に近い親類でして、南北朝の戦乱期では一方の旗頭として活躍した武将が多いです。正確に言うと吉良、石橋、斯波の三家で渋川は若くして当主が亡くなる事が続いたので、いまいちでしたけれども。

 その後観応の擾乱では斯波はどちらかというと直義方、石橋は尊氏方。吉良は両派に分裂します。擾乱の終息で吉良は中央政界からは退潮。斯波、石橋は足利義詮を支える重鎮となるのですが、すぐに政争で石橋は敗北して奥州戦線へ。んで義満期から義持期に活躍した斯波義将の時代に斯波家は全盛を迎えますが、その後の当主たちが比較的若く亡くなったので政治的精彩を欠いてきた、と思っていたのですが、どーも義教あたりが意識して、この斯波家の退潮を促していたみたいですね。

 斯波家というのは足利将軍家にとって「最も頼りになる男が、最も恐ろしい」を地で行く一族でして、足利将軍家が断絶したらとって変わってもおかしくない家格の高さと、三管領筆頭という大名たちを引っ張っていく実力を兼ね備えていると。最初管領に就任する時だって「なんで本家の番頭みたいな事、せにゃならんのだ?」って不服をこぼしたらしいですし。

 当主が夭折していく中で、次第に家中統制が悪化していく斯波家ですが、それと合わせて儀礼の場でも弱体化していた名門、吉良、石橋、渋川を取り立てる事で相対化していったと、そんな感じに思えます。なんでかって言うと、渋川家を除いて吉良や石橋は政治的に大した働きをしていないし、渋川にしても渋川が退潮な時期に斯波家に支えてもらったらしく、世間的に渋川は斯波の一族みたいな認識があって、それがあって継承問題でもめていた斯波家問題解決に渋川家から後継者が入るという事に。もっともそれは混乱収拾にはならず応仁の乱の原因の一つになってしまう訳ですが。

 一度権威と認識されると戦国期まで使われるようになりますが、京都方面で活動していた者たちは早くに没落。関東の吉良氏は小田原北条家に包摂される形で存続し、小田原北条家と運命を共にしますが、江戸期に復活。そして京都吉良家の流れを組む吉良上野介が赤穂事件で改易されてしまうと、本家になるという・・・運命は何が待っているか判らない・・・

 ま、石橋と渋川が早々に消えてしまっていますけれどもね。