pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

個人の感想です

 儒学はかっこつけ。だいたいいつもそんな風に感じるのですよ。

 

 江戸幕府親藩水戸藩の歴史という奴です。何故『御三家』の一つって書かないかというと、『御三家』という設定自体が江戸中期以降につくられたものっぽく、しかも水戸藩が積極的にそういうイメージを作り出した、尾張藩紀伊藩と並び立つ為の作為、背伸びであったという印象があるからです。この本にも書いてありまする。

 江戸初期から五十万石前後の国持ち親藩大名は、戦略的要地に設定されてきましたが、将軍家への態度、関係性から取り潰されたり、削減されたりして、結果的に尾張藩紀伊藩のみが生き残りました。徳川姓の大名も気が付けば二つに加えて水戸藩のみ。そこにアイディンティティを見出す訳ですね。江戸時代、どの大名家も自らの家格を上げるために少なからぬ財力と努力を投入する訳ですが、水戸藩は光圀の代に儒学の奨励と歴史編纂という事業にリソースをつぎ込み始めると。

 ただここに面倒くさい方向性がつけられまして、もともと清和源氏新田系を名乗る徳川家自体の正統性を訴える為に、その新田氏が支持していた後醍醐天皇南朝を正統化してしまった訳ですな。これ、当時の常識から真っ向から対立する考えで、当たり前だよね。現在の皇室も含めて北朝の子孫なんですもん。自らのご先祖が非正統家系でした、なんて、天皇や朝廷がいう訳がない。しかし江戸初期から軍記物『太平記』が流行し始めていたらしく、目新しい南朝正閏説が判官びいきもあって受け入れられてしまって、明治維新後から続く面倒くさい話に続くと。世論への迎合を余儀なくされてご先祖を否定させられる皇室もアレだよな・・・

 しかし徳川家は何故新田系の清和源氏を名乗ったのか?って疑問があるのですが、徳川家が天下人になると前代の足利将軍家への対抗という感じになりますけれども、名乗り始めた家康祖父さんの世代の頃は、松平家なんて西三河の国人に過ぎず、数世代前に有徳人の土豪から室町幕府政所に属するようになった新興武士に過ぎない。それぢゃあなんで?

 ここから先は想像なんですけれども室町時代足利将軍家を『武士の王』という家格秩序が形成された時代で清和源氏、それも足利、新田双方の祖、源義国を始点とする家系が重視された時代でした。つまり足利も新田も同じ先祖から始まった同族という意識があったと。そして三河国承久の乱以来足利家が多くの所領、支族を展開した第二の本国とも言える土地で、室町時代でも三河守護より幕府政所や奉公衆という幕府の勢力が統治能力を持っていたようなところです。西三河フィクサーとして存立しようとしていた家康祖父、清康が新田系の世良田氏を名乗るのも、「うちは足利将軍家の遠い親戚なんやで」と行為の正統性を訴える為、とも言えるかな、と。ここで足利系を名乗ると明らかな嘘なので、そんな事もあるかな?という衰えた新田系の家系に設定しているところがミソといえるかも。

 まさかそれが南朝正閏説にまでつながるなんて、清康はおろか家康だって思わなかったでしょうけれどもね。武士の粗暴性を抜く為に儒教を取り入れたのですが、それに入れ込み、徳川家正統化の為に面倒くさい事を言い出す子孫がでるとは。

 さて、神話時代から始まる日本の歴史編纂なんて大事業、中央政府の幕府でもやっていない事を手掛けてしまった水戸藩。財政難を抱え込むのは必然で、更に家格上昇の為に出費がかさむ事を恒常的にやり始めるわ、その為の改革は、大した効果を得られないわ、過剰生産の米価安で藩財政は負のスパイラルだわ、まぁ他の大名家と変わらぬ借金生活。しかしそれでも何とかなっていたのは・・・幕府におねだりしていたからで、ええっと、ごめん。文系ドラ息子にしか見えない。

 なーんかね、『幕末の志士』たちの空虚で威勢のいい言説の原点は、ここかぁ、とか思うとね、空虚ではた迷惑な『かっこつけ』総本山に見えるんだよねぇ・・・個人の感想ですよ?