pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

雨だというのに鼻がムズムズ

 雨が降ると花粉の飛散が抑えられるという話ですが、良く解らん。風邪なのか、それともスギ花粉は抑えられるけれども、アタクシが反応するものは抑えられていないのか、良く解んね。

 良く解んないままに人生を続けております。そしてそんな話題とは関係ない本を読みました。

 

 著者の方が戦国期今川家の研究がご専門なので、今川領国の城、本拠地駿府(正確にはこれは舘)と駿河遠江三河の領国三国からひとつづつピックアップして論じています。駿府館は政庁って感じで非常時を想定という訳ではない、と。そういう場合詰めの城というものがあるのですが、どうも寺院を使っていたらしいと。この時代の寺院は、ちょっとした城砦みたいなものが多いですからね。それだけ今川家の支配は安定していた時代が長かったのかしらん。

 駿河からピックアップされた興国寺城は、『北条早雲』に与えられた城として有名ですが、実は城として取り立てられたのは甲相駿三国同盟の成立前後からで、この城で武田、北条、今川の代表者が会合を行ったり接待したりする事で三国同盟を可視化させた、儀礼の場所として取り立てたみたいです。善徳寺会合は誤写から始まった伝説らしいですね。

 遠江からは高天神城。武田、徳川の争奪戦で有名ですが、もともとは今川家にいる遠江南部支配の拠点で、今川氏親にとって準一門である福島氏が入っていました。家妻ではないけれども妻妾を入れているからですな。んで氏親嫡男、氏輝とその弟彦五郎が相次いで亡くなった為に起こった花蔵の乱で福島氏所生の玄広恵探を支持して義元派と対立し敗北し大打撃を受けます。変わってこれまた準一門と見なされる小笠原氏が入るという、今川家にとって重要な拠点という事が解ります。驚いたのは戦国期、遠江の南側は浜名湖とは別に大きな入り江があって陸路は不便な場所に高天神城は存在し、海路での中継点としてこの城はあったと。それが江戸期の地震による隆起、開拓によって今みたいな姿になったそうです。そういえば掛川城に籠って最後の抵抗をしていた今川氏真。三か月籠城できたのは北条から海路での補給を維持できたからで、遠江は陸路よりも海路が重要な土地だったのかも。

 三河は現代の豊橋あたりの吉田城。三河国府がだいたいその辺で、守護所もそのあたりで、室町期の守護一色氏と繋がっていた牧野氏の城で、それを牧野氏の敗退、失策から今川が拠点として取り立てたらしいです。そうだよな。現代はトヨタ系企業が多い西三河が栄えているけれど戦国期の西三河は、矢作川水系以外に耕地とかも少ないし、どっちかというと貧乏だもんな。逆にそういう場所だから今川自身の拠点にならず、国衆松平氏の準一門取り込みという形に、つまり高天神城みたいな扱いにしていたのかも。

 そーんな本でした。