pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

先週を通して読み終えたもの

 図書館で借りてきた本、三冊をどばばっと今日までに読み終えました。読み飛ばした箇所もありましたが、それは後述の理由です。では一冊目~。

 

アレクサンドロス変相―古代から中世イスラームへ―
 

  アレクサンドロス大王の史実ではなく、彼の死後、時代、地域によって人々がどのように彼を解釈し、かつ利用したか、というお話でして、まぁファンタジー作品を集めたようなものです。先週の日記でも何度か書いている通り、彼がギリシアからインダス川までを征服したという、古代では衝撃的な実績から、彼を超絶した悪、あるいは神の僕と見なして、その時々のプロパガンダに利用してきたという事です。

 似たような存在が持統天皇によって彼女の父、中大兄皇子こと天智天皇に擬された聖徳太子・・・厩戸皇子ですかね?実際の彼は推古天皇後に皇位継承の可能性がある有力皇族に過ぎなかった訳ですが、当時の慣習で父母が天皇でも四十代を超えなければ即位できず(どうも四十歳前後になった政治経験をある程度積んだ、天皇の子、あるいは皇族でないと壬申の乱以前の日本では皇位につけなかったようです)、称制という後にも先にも彼だけが称した地位で政治を主導した天智天皇の存在が、先例ではない、という印象操作を行ったみたいです。

 対外関係担当みたいだった厩戸皇子は渡来した仏教に帰依した保護者に準えられ、その後、多くの寺院によって『聖徳太子が創設にかかわった』伝説が作られましたからね。皆の希望がそういう形になった、という事ですか?

 

水軍と海賊の戦国史 (中世から近世へ)

水軍と海賊の戦国史 (中世から近世へ)

 

  戦国期から江戸時代にかけて活躍した『海賊』『水軍』について主に瀬戸内海、東海、関東の事例を中心に語っています。ちなみに『海賊』という呼称は東海地方が主で瀬戸内海では東部では『船手』、西部では『警固』と呼んでいたそうです。瀬戸内海を往来する外国船やら遣明船やらの『警固』を務めたかららしいです。

 基本的に瀬戸内海の『水軍』は国人領主に似ていて、自立、自己完結した権力である場合は少なく、陸の領域権力と結びつく事によって、自己の勢力以上の艦船を、つまり艦隊をつくっていたみたいです。

 あと、意外に大阪湾を中心にした瀬戸内海東部の制海権争いは熾烈を極め、三好氏衰退後、本願寺と結んだ毛利氏配下の水軍が淡路島まで出張って制海権を確保。大阪湾で織田方についた摂津和泉の水軍勢力を圧倒しますが、伊勢湾、志摩地域の織田方水軍が到来して拮抗状態になります。ちなみに織田の鉄甲船が毛利方の水軍を圧倒したという第二次木津川口の海戦は、そこまで一方的な戦いではなかったそうで、決定打は、摂津の荒木氏、播磨の別所氏など一端織田方について毛利方に裏切った諸勢力が敗北した後、播磨の水軍をまとめた秀吉や摂津の水軍が協力して淡路島を奪取した事、だったようです。その後、秀吉が天下を手中に収め、対外戦争の為に水軍を整備したので、播磨あたりの呼称『船手』が一般化し、それを引き継いだ徳川政権も、そう呼称したそうです。

 ちなみに関東や東海(静岡あたり)は伊勢湾や熊野灘、瀬戸内の水軍に比べると技量、規模、統率が劣っていたようです。北条氏の水軍は伊勢辺りから勧誘したそうですし、武田も九鬼氏に勢力争いに敗れた志摩の水軍を勧誘して組織化したようです。

 ただ水軍の統率に『伝統』とか『血統』とかはあまり関係なく、ただ船乗りを統率する力量のみが求められていたようで、海に関係ない生い立ちの秀吉子飼いの武将たちも『水軍大名』として対外戦争で活躍しました。

 あ、その朝鮮侵攻においても朝鮮水軍に圧倒されたのは初期で、補給線の確保に専念すると善戦するようになり、戦い方も洗練されてきたそうです。総じて一進一退の攻防って感じ。ただ戦闘で負けても戦略目的は達成したりと、なかなかいぶし銀的な活動を見せています。

 ああ、なんか1600文字こえてもーた。もう一冊は明日にします。