pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

都市の物語

 図書館で借りる本が、その手の物が多かったので、読書感想はしばらくそんな感じになりまする。

 

 一冊目は北京の本です。古代の文化的には半農半牧の中国東北地方と麦、稗、粟などの雑穀濃厚の華北との接点であり、朝鮮半島とかも含めて複数の文化圏の交易中継点として発達したようです。とはいえ、人口的には規模が小さく、黄河流域や長江流域に比べれば小国でした。戦国期にここにあった『七雄』燕が活躍するのって楽毅が出た時ぐらいだよな。

 統一王朝期はやっぱり辺境の中心都市って扱いですが、風向きが変わるのは域外からの征服王朝、遼ができてから。つまり東北地方や草原地方の勢力が長期政権をつくり華北地方との戦争や交易が盛んになってくると、折衝、交易、政治の拠点として重要になってくると。なので遊牧民的な性質を持つ遼王朝は五つの拠点(都)を周回するのですが、その拠点の一つに後年の北京が数えられるようになったと。

 モンゴルが中国を完全に征服すると、やはり冬の拠点として大都(北京)が建てられ、これが北京の原型とも言えるものに。ただし漢族の王朝、明がモンゴル勢力を追い払った直後は、経済的な中心地となった長江下流の南京に首都がおかれますが、靖難の変によって北京地域の藩王であった燕王が皇帝になると、北京になりそれが明清期続く事になるのですけど、自分が思っていたほど簡単な事ではなかったようです。

 まぁ漢族にしてみれば北京って、辺境の異民族との接点って感じで、国の中心ってイメージぢゃないかも。日本のイメージだと札幌に遷都って感じ。札幌は北海道の中心だけど、日本列島で眺めると北に寄りすぎているよね。

 靖難の変で皇帝位を簒奪した燕王→永楽帝はその正統性を問われ続ける事になり、大きな政治的成果を得る事が宿命づけられます。一番大きいのはモンゴルなどの遊牧民勢力に痛打を与える事で、その拠点として南京は遠すぎる。彼の政策上の必要から北京になったみたいです。

 だから永楽帝が没すると、また南京への遷都の話が持ち上がります。まぁその頃には隋代以来の南北を結ぶ運河網も再整備され、物流もつながるようになっていますし北京に都を置くデメリットは軽減されていますので、南京に戻る事はないのですが、でも北京は北方民との接点であって国の中心ではないって言う意識があったのですかね。清の後の中華民国は南京を首都にしています。日中戦争で廃墟になったりしてそんなに長い時間ではなかったけれど。日本の関東軍はそういう意識を見透かして傀儡国家満洲国をこさえたのかも知れませんが、でも僻地でも切り取られたら領土型国家の民は立腹するけど。たとえ自分たちとは関係性が薄くても地図上の国土が減らされるのは嫌なものですから。

 中華人民共和国になって北京が首都となり、それは現在まで続いていますが、これは中国本土だけでなく、チベット、東北地方、内モンゴル、新疆、そういう清王朝が影響を及ぼしていた地域も自分たちの国境に収めようという決意の表れだったのですかね。

 面白いな、と思ったのは紫禁城を居城とした皇帝たち、明の諸帝は住んでいたようですが、清の諸帝はほとんど住んでおらず離宮に住んでいたとか、清朝の旗本である旗人たちの内城と庶民が住む外城では町の雰囲気が異なり、ヨーロッパ人は内城を『タタールシティ』、外城を『チャイニーズシティ』と呼んでいたとか。

 この本を読んでいると北京は中国共産党の首都って感じなんですよね。長い歴史、状況が変われば首都も変わってきた国のお話ですから、国の核が不動っていう意識も薄いのかも知れません。変化し続ける状況に応じて、街も変わっていくというのは、人が環境に対応していくのと同じって感じですかね。

 最後の方、まとめ方が解らなくなってもーた(おい