焼きに向いている肉と向いていない肉がある。そんな事を思い知った昨夜でした。いや下準備不足とも言う。とにかく包丁の有難さを思い知り、噛み切れぬ肉を飲み込む大変さを思い知った夜でした。次はちゃんと下準備して焼こう・・・
んで読み終えたもの。
著者の天野さんは三好氏とか松永久秀とかの研究で著名な方で、織豊系の研究は聞いた事がなかったものですから興味本位で購入して見ました。んでこの本を書いた理由というのが、松永久秀支配の大和国のその後を描くという事で、あ、なるほど~、と。
秀長君、初名は木下小一郎長秀でして、丹羽長秀と同名になっちゃうから最初から秀長って記載される事がほとんどですが、これ、『長』の字が信長からの偏諱(環境依存文字だから文字化けしているかも)らしいので、最初から兄貴の家臣とかではなく、兄弟そろって信長の直臣から始まったんですな。これは期待している家臣秀吉の弟だから授けたのか、それとも秀吉よりも秀長の方が評価されていたのか、どっちなんだろ?
とはいえ、彼のキャリアはほとんど兄秀吉とセットで築かれており、最初は秀吉に付けられた与力という立場だったのでしょうね。
んでこの本で初めて知ったのは、彼の莫大な遺産の使い道のこと。彼の大和支配は一面過酷でして、特に古来からの南都奈良に対して経済的な圧迫が激しいのですが、これには目的が複数あり、奈良を門前町としている興福寺や東大寺など、平安期から大和を支配していた寺社の大権門の力を削ぐこと。その為の新たな拠点として城下町大和郡山を優遇し発展させることがあったのですが、それに加えてどうも大陸へ侵攻する際の水軍整備をする為の資金源として調達していたみたいなんですね。
豊臣政権崩壊の一因に大陸侵攻の失敗があり、秀長が長生きしていたら・・・とか言われるのですが、大陸侵攻を援護する日本水軍の主力は紀伊の熊野水軍であり(考えてみれば波の比較的穏やかでローカルの複雑な水路を制する事で存在感が強い瀬戸内海水軍よりも、太平洋に面した波の激しい熊野灘わ行き来している熊野水軍の方が航海技術は上ぢゃね?とか思いました)、その紀伊の領主でもある秀長が大陸侵攻に関わっていない筈はなく、計画段階では秀長が総大将として渡海する予定だったらしいので、秀長存命でも大陸侵攻は行われただろうと。
また明朝からすると自らが『日本国王』と認定した足利将軍を否定した『謀反人』である秀吉と外交交渉する事はなく、武力によって強制的に交渉のテーブルにつかせる事は中世の交渉ではありえる話で(明の宿敵、元の後継国家も戦争の末の和睦で交易に関する交渉をまとめたそうな)、そういう視点は今までなかったですね。そうすると大陸征服を公言していた秀吉も、プロパガンダの一環で言っていただけで、本音は明との交易関係樹立だったんですかね?どうなんでしょう。
徳川幕藩体制成立期に外様として徳川家に協力した人々は秀長幕下にいた人も多く、秀吉の義弟である家康は、ある意味秀長の立場を継承したとも言える訳で、豊臣政権の崩壊は秀吉側近グループと現場責任者たちの対立が引き金とも言えるので、これは秀吉、秀長が存命中の九州戦の戦後処理にも垣間見えるので、つまり長生きしても、どれだけ秀長に秀吉側近グループを牽制、統制できただろうか?という疑問も残るのです。
つまり、何が言いたかったのかというと・・・秀長が秀吉よりも長生きしても、秀吉側近グループとの軋轢を平和的に解決できなければ、同じような結末になったかも・・・と。今、豊臣大名としての南部信直に関する論文集を読もうとしているのですが、その信直曰く、晩年の秀吉には誰も恐ろしくて逆らえなかったそうですから、その鬱憤が側近たちに向きそうな気がするんですよね。
今年は秀長に関する評伝がいくつも出ているみたいなので、今度は織豊研究をメインにしている方のものを読んでみたいです。
