pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

古くて新しい

 読んだ後、そんな感想が頭に浮かびました。

 

 先年亡くなった著者の旧版+αで構成されている本なので、読んでみると、あ、ここは最近は違う解釈が主流だよなっていうのが良くあります。しかしそれを除いても、現在でも『織田信秀』や戦国期の尾張守護家、尾張守護代家などの記述は最新って感じです。つまり、そんなに研究が進展していない分野ということ。まぁ資料が少ない時代であり、なかなか難しいものがあります。ただ著者の方もそうですけど、当該期から存続している寺社の記録とか、棟上記録とかから、ひょっこり実在が確認、あるいは否定される場合もあるので、古い寺社仏閣は侮れないのですよ。

 古くて修繕されていないから問答無用で破棄してしまう前に、地域の学術機関に調べてもらう事が望ましいですよ、はい。

 織田信秀段階の織田弾正忠家は厳密にいうと戦国大名ではありません。『今川仮名目録』では今川氏は自らの領地での最高権威は自分にあり、他の権威に従う必要はないと宣言していますが、尾張守護家の家臣である守護代家の、その下僚であるというのが織田弾正忠家である為、その軍事行動には、特に他国への出兵には守護家、あるいは守護代家の支持、命令があった方がいいという点、上位権力の束縛から自由ではないという事です。

 本人としては親の代に従えた津島や自身が従えた熱田、そして西三河方面と、交易、通商の要路を抑えたいと考えているみたいなんですが、大垣城を勢力圏に収めた話は、少し違うような気がします。これは美濃守護家の内紛、そして斎藤道三の覇権に絡んで、越前朝倉氏と尾張斯波、あるいは守護代家の指示により、軍勢調達能力に優れた織田弾正忠家が美濃守護家の内紛に介入。その過程で確保した拠点が大垣城だったって理解なんですかね。そうでないと地理的に一貫性がないというか、大垣だけ孤立しているのですよ。地続きではないように見える。まぁ現在よりも木曽三川は複雑に絡み合っていたので、木曽川沿岸の津島と、揖斐川流域(だよな)の大垣とは完全に導線がないとは言えませんが。水路で繋がっていると思うけど、それにしても離れている拠点ですもんね。

 しかし織田信秀の不幸は、情勢の悪化(大垣、安城の失陥。勢力圏の縮小)と本人の健康状態の悪化が同時進行であったこと。態勢を立て直す時間は彼にはなく、また嫡子信長はまだ若く、信長の同母弟信勝にも同じような権限を与えて、つまり織田弾正忠家を分割統治状態にしてしまった事が、信長が苦労する原因になりました。

 だからねぇ。信長が信秀の葬儀で位牌に灰を投げつけたってエピソードって「親父、こんな状態で死にやがって。ふざけんな!!」って気持ちの表れであったんぢゃないかなーっと思っています。好き勝手やって収拾できず、しかも弟との争いの種まで残しやがって!!って感じの。

 信長飛躍の前提条件で信秀が用意したものは何だったのか。これからも研究が進展して欲しいものです。