pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

今年もよろしくお願いします。

 エア読者さま方、お久しぶりです。十一日ぶりの営業日です。今年はメーカーの仕事始めもバラバラだし、刺繍屋さんもどうなのか分からないので、いまいちピリッとしない年初めなんですけれども、ま、こんなもんなのかなぁ、と。

 それなりに仕事はありますが、午前中に日記を書く時間は捻出しました・・・というか、他の仕事を後回しすればええやんけ、という非常に合理的な理由です(オイ

 まぁ二十分ぐらいで書き終えるから、もーまんたいよ、はい。

 この年末年始は、いつものように飲んだり食ったり、読書したりゲームやったり、動画を見たり録画していた映画をみたり三昧でしたからね。書くことに困りませんよ。十日間やっていたのはそれだけなのですから(吐血

 んで読み終わったものから、やっつけます。

 

クリミア戦争(下)

クリミア戦争(下)

 

  読み終えますとねー、現代でも変わらん問題があるのよねーっと思います。戦われた範囲は限定的ですが、その後の世界に及ぼした影響は多大で、特に緊急医療の分野は飛躍的に向上しました。助かる重傷者から治療する。助からない人に費やす時間や人手、薬品をそちらに振り向ける方が合理的であり、結果的に死亡者を減らすことになります。また病院の衛生関係もこの戦争から改善されました。

 生まれて確定していた軍隊の士官とそれ以下の階級の差も、役に立たない士官が及ぼした絶大な損害の反省から能力主義へと移り変わります。最大の変化はジャーナリズムが世論に及ぼす影響力をまざまざと見せつけた事でした。それによって軍隊の状況が多少なりとも改善され、つまりジャーナリズムの良い面が評価された戦争でもあったのです。

 とはいえ、現代までも続く人為的なトラブルは変わりません。人間は基本的になまけものであり、必要がなければいくらでも手を抜き、そして戦争はその手抜きが死に直結する。それゆえに非難されると解り易いのですが、日常生活の仕事場においては、命に係わる現場以外は見過ごされがちです。もっともよいのは手抜きをしても大過なく物事が処理されていくシステムを確立する事ではないかと思いますが、そうなると労働者の価値が相対的に低下し、「手軽に首切れる人員」が経営者が求めるものになってしまう。

 世の中は上手くいかないものなんだよなぁ、と。

 

  書いている最中に刺繍屋さんが来てくれた。ヨカタ。それはさておき今年発刊された本なので読んでみました。奈良時代聖武天皇の時代が、実は一旦確立した律令体制と藤原氏、阿部氏、多治比氏、大伴氏の四氏(壬申の乱やその後の律令体制確立に尽力した勢力だと思う)が中心となって天皇を支える体制が、天然痘の流行により四氏の議政官が半減以下になってしまい、政府を主導する経験者が決定的に不足した時期に、聖武天皇の配偶者である光明皇后とその縁者が政権を支えた時期、と捉える事ができるというが新しかったかな。当時の政府首班は橘諸兄であり彼は光明皇后の異父兄になります。

またその後政変を経て主導権を握るのは光明皇后の家政機関の長をしていた彼女の甥である藤原仲麻呂です。

 仲麻呂淳仁天皇の義理の舅(亡くなった息子の妻を淳仁天皇と娶せたので)でもあったので天子の師匠と位置づけられる太政大臣になりました。形態としては後の摂関体制に似ています。

 恐らく些細な事で淳仁天皇と彼を支える藤原仲麻呂と対立した孝謙太上天皇は仏教の師と仰いでいた道鏡に、その仲麻呂の役割を求めますが、宗教者である道鏡が主体的に政治的首班の地位を求めたのかは一次資料からはうかがえないようです。

 道鏡の採用という突飛な思い付きは、天皇の地位を血統ではなく宗教で保証、正当化、聖別しようとした孝謙、いや称徳天皇の思惑があったようです。それよりも以前に聖武天皇が出家したり東大寺大仏を建立したりと仏教の権威を利用しようとしていました。未婚の皇女、皇太女として即位した孝謙称徳天皇は自らの血統に皇位を継がせる可能性はありません。ならば血統ではなく宗教権威に彩られた非世襲天皇家を創設しようと考えてもおかしくはありません。ま、それは結局貴族たちの入られるところではなく、天皇ローマ法王のような存在になるという事はありませんでしたが。

 最初並べて仲麻呂道鏡を描くってなんだろう、と思ったのですが、制度はできたけど実際の運営で右往左往している過渡期で、天皇家の都合に振り回された『最高執政者』という矛盾した存在だったというのも、日本特有の事なのですかねぇ。

 あ、もう一冊書けなかった。それは明日に回します。