ま、この業界、季節の変わり目が繁忙期で、季節が変わり切ってしまったら暇なんですけれどもね。今日の予定の目途が立ったし、つまり時間があるから安心して日記にかかる訳ですよ。覚えているうちに書かないといけないからネ。
結構前から図書館の本棚に並んでいたのですが、読んだような気がしていたので手を出していませんでした。ま、読んでみたら学術論文集が既読で、二次資料も駆使しての評伝は未読でした。こっちを先に読んだ方が理解しやすかったorz
長宗我部家は片田舎の後進性故に・・・と通説で語られますが、そんな事はありません。太平洋航路を使えれば種子島にダイレクトに接続できますから、鉄砲の受容は早く、装備率も高いようです。その鉄砲故に勢力拡大したようですが、一両具足という一騎駆け、つまり重武装の武士本人しか軍役に出せない規模の、半農でやるしかない規模の領地しか持たない零細武士の比率が多かったので大規模動員は難しかったようです。最盛期でも一万超える程度の兵力動員規模。ただ一両具足という表現自体、江戸時代ぐらいから普及した言葉みたいで、同時代での使用例は一、二回ぐらいしか残っていません。
信長との対応も一方的に信長に無理難題を、という訳ではなく、対三好家戦争という利害が一致すればどことも結んでいたようで、讃岐の三好勢力との抗争で毛利家とは結んでいましたが南伊予の領主が長宗我部家を頼るようになると、伊予守護家の河野家を内包しつつあった毛利家とはその方面ではギクシャクしています。織田家が毛利家と抗争するようになると、讃岐方面の事もあり毛利家と馴れ合いしている長宗我部家が織田家から不審の目で見られるのは当たり前です。
また本能寺後の羽柴秀吉とは基本的に敵対関係でしたが、それも秀吉が信長の四国政策の転換・・・三好家を取り込み、その勢力を足掛かりにして瀬戸内海沿岸の四国地域を制圧する・・・を継承した結果、三好家と対立している長宗我部家としては容認できないもので、面白いもので小牧・長久手合戦後、孤立したとみるや長宗我部家はかなり譲歩して(土佐一国と南伊予の保持)秀吉との和睦を図っています。一度それで妥結する寸前までいったのですが、毛利家が伊予の領有を望んだこと、秀吉が毛利家との関係を重んじた結果、四国征伐が決定してしまいます。ただこれは長宗我部家の主戦派を黙らせる為に、戦場で敗北する結果を長宗我部家自身が望んでいた事もあり、最終的に長宗我部家は土佐一国の領有を安堵される降伏案を受け入れます。この戦略目標があったから調整型の政治家といわれる羽柴秀長が総大将として四国に赴いたのかも知れません。
それに長宗我部家は実際の石高よりも低い石高設定をされています。軍役三千人というのが最初に決まっていて、それに合わせた表高報告だったようで、このあたり、豊臣政権としても降伏交渉寸前で第三者の思惑の為に決裂してしまった長宗我部家に気をつかっている感じです。江戸時代になったら土佐藩山内家は二十万石をこえる石高があった!!と幕府に申告していますから。ま、当時は石高で家格、席次が決まり、四国第一の大名の座を阿波の蜂須賀家と争っていたという面もありますけれど。
通説で言われるお家騒動は、関が原合戦で盛親が「佞臣」の為に判断を誤ったという物語の為につくられているという感じで、実際は長宗我部本家直轄領に匹敵する領地を持つ大身家臣を骨抜きにするもので、これにより大名権力は豊臣政権が要求する軍役や賦役に対応できるまでになりました。
まぁ、関が原戦、戦後処理は不運としかいいようがない。特に改易の原因は、どうも領地縮小で和睦が決まりかけたタイミングで国元で一揆が起こり、これで寛大な処置に落ち着いたらゴネ得と思われるので、改易という判断になったという・・・この後、お家再興をもくろんで活動するも低調。んで最後のチャンスと大坂の陣に豊臣方で参戦。活躍するも、耳目は真田信繁や後藤又右エ門に集まり知名度はいまいち。
秀吉との和睦の顛末もそうですが、ここぞという時に運がない家なんだなぁ、と思いました。
あ、えらい長い分量になってもーたナ。