pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

メリークリスマス!!

 まぁ時節ものですから題名にしておこうかと(あ

 だからと言って何をする訳でもないですが。いやだって親父に夕食に何するん?って昨晩の夕食時に聞いたら『鍋』って答えていたから、んぢゃそれっぽいものを準備するのは辞めよう、と。気分屋だから変えるかもしれないけれども、そんときゃあ冷蔵庫の中にそれっぽいものがあるから、それをスライスして出せばいいや。クリスマスというと何故か鶏肉系を使った洋食を食べたくなるのですが、明晩は外食する予定なので一人でそれっぽい事を最終的にやるまで想定しております。はい。明日は絶対どこかで葡萄酒一本干す。

 ガルパン最終章の三話の円盤は、やっぱり昨日は入れ違いになりました。黒猫さんが業務通りに仕事をしてくれるなら、午後二時から四時の間に届くので、今晩はそれを見ながらラムをすする予定です。

 そして読み終えた本は今日はありますのでね。

 

 ちっともクリスマスっぽい装丁ではありません。そうそうクリスマスっぽいもので揃えられるものかと思ったりしたりしますが、内容は自分には興味深かったです。装丁の絵もそうなのですが北宋徽宗という皇帝は政治的にというよりも文化面で著名な人で、書画が達者で、現物ならば値段がつけられない美術館行の作品ばかりですが、水滸伝とかでも『人の好い遊び人』として描かれるように、政治的には蔡京という宰相の派閥、門閥が専権を振るい無能であったと理解されていますが、日本の室町将軍足利義政がそうであったように、政治的な意欲は実は結構ありました。

 北宋は『君主独裁制」が完成したと言われていますが、その実態は皇帝機関説、つまり皇帝も役職として存在しているのであり、最終的な裁可を下す存在で主体的な判断は制約されていると理解されていました。んが、実は皇帝その人の個性によっているのだとこの本は述べています。宋の創設者は太祖ですが、二代目はその息子ではなく弟の太宗でして、つまり結構野心的な人物ですが、その野心的な人物の時代に『君主独裁制』が確立したと言いますが、そんな人物が裁可業だけに甘んずる筈がなく、実質的には三代目、四代目が皇帝機関として働いたと。

 それが神宗の頃から風向きが変わり始めます。原因は科挙官僚が実務に疎くなってきたこと。先例重視とか、経済業務を軽視するとか・・・え?金が全ての根幹だと思うのですが、どうもそういう実際の問題を処理できなくなってきていると。それで新法が出てきてくるのですが、徽宗も父皇帝の路線を踏襲します。また新法派の官僚といっても権力闘争の道具にしている場合もあり、権力を掌握すると・・・まぁ皇帝の意志と食い違いも生じる訳で、そうなると徽宗は権力者の隙、わきの甘いところを突いて失脚させます。

 蔡京もご多分に漏れないのですが、彼の場合は血縁、縁戚、派閥がかなり広範囲に展開していて、幾人も徽宗の切り崩しで裏切られるのですが、裏切る方が多数派工作に失敗して徽宗の信頼を失い、彼が復権するというパターン。

 また彼とは別に彼の長男(個人名の漢字が検索しても出てこなかった)は個人的に徽宗と信頼関係を築き、本来ならば宦官が任じられる皇帝のプライベート空間の役職に任じられ、皇帝の意志を遂行する人間として良くも悪くも活躍しました。

 だから外交的不実が原因で金王朝の侵攻を許した際、徽宗が逃げ出すように退位しますが、その茶番劇を主導し、徽宗とともに逃亡したので憎悪を集め処刑されます。

 科挙官僚に失望した南宋の皇帝は軍人、側近、皇族から人材を得て政府を運営しますが、しかしそれは個人的に統治能力がある皇帝であれば機能する事で、その能力のない皇帝になった瞬間、権臣による専権が始まるという・・・このあたりの構造が、専権者を掣肘するシステムをつくらないと皇帝が危険にさらされるという事で、そのせめぎあいがまだ続くという。そういう意味では明や清がどのように運営されたのか、少し気になりますね。