pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

とりあえず二冊

 読み終えたものが二つ。というて一つはうっかりチェック漏れていたのですが。

 

 この物語世界の魔法使いって体育会系の脳筋ではないかと思う時があるのですよ。禁忌を疑う事なく、ダメなものはダメと、判断するのは自分たちではないと、そう言い切る魔警団の態度が、どーも受け入れがたい。たぶん物語のデザインとして、大人たちが受け入れる禁忌を乗り越えて、主人公の子供たちが新しい魔法使いの世界を開いていくって感じなんだろうとは思うのですが、どうにも苦しい展開が続きます。心苦しいというか、やりきれないというか、抑圧を弾き飛ばしたいというか、大人や体制の魔法使いたちに、ちっとも共感できない。たぶんそれは抑圧的に禁忌を犯したものを取り締まる魔警団たちのせいで、禁忌に盲従する彼らがちっとも「魔法使い」的に見えないからかなぁ。

 魔法使い→知的→懐疑的・・・って思っているからかな?知的好奇心は「何故だろう」という疑問から生じているのではないかと思うので、そう思う事を禁じられた彼らが、どうにも悲しい存在に感じられてならない。それに物語の展開も、今のところ夢も希望もない・・・どーすんだろう?どーなるんだろう。そしてアニメ化ですってねー(あんまりアニメ見なくなったからなぁ

 

 戦国期~江戸最初期に現れ、そして改易してしまった名族出身の大名最上氏なんですが、三代ってどういう事だろう。最上義光しか知らん。あ、山形藩主三代の事ねー。三代で改易されてしまったからナ、と。

 だから本文もそのほとんどは最上氏を拡大発展させた最上義光の事で占められています。父親との主導権争いに勝ち、曲がりなりにも織田信長政権下で秩序が完成した出羽南部で、本能寺の変後の混乱を有利に運んで領域を拡大。秀吉政権にも臣従しますが、彼一番の大博打は徳川家康に徹底的に仕えて関ヶ原で上杉軍の猛攻を凌ぎ切ったこと。これは豊臣秀次側室に出したばかりの愛娘が、秀次切腹事件に連座して殺されてしまった件。更に義光自身が秀次との関わりから謀反の嫌疑を受けた事が影響しています。とりなしに奔走したのが家康だったので。おかげで関ヶ原戦で最大の増領を得たようです。十三万石→五十七万石って、黒田長政よりも伸び幅多いよな。確かに上杉軍の相手を彼が引き受けたから徳川は腹背に敵を受けずに集中できましたからね。伊達っちは、徳川と上杉で両天秤かけていたらしいっすよ?

 ただそれが後継者にとって裏目に。豊臣秀頼近習として仕えた長男義康は関ヶ原戦でも実戦指揮官として活躍し、彼が後継者であれば急速に肥大化し、諸侯連合体の体しかなしていない最上家家中を『軍事的カリスマ』の演出でまとめる事も可能でしたでしょうが、どうも大坂の陣あたりで義光と衝突したらしく、引退、暗殺。変わって後継者となった家親は徳川秀忠近習で徳川時代を生きるには好都合でしたが、実戦指揮をした事はなく、家中分裂を収める矢先に急死。残されたのは十二歳の家信という嫡孫。もうお定まりのお家騒動を取り鎮める事はできず、五十七万石の領域は没収と相成りました。

 思った以上に戦国ドリームだったのねー。そして早々に消えてしまったので、伊達家あたりから悪い事はだいたい最上家のせいみたいに言われてしまって。実際義光と政宗は仲が良くなかったみたいですけれども、伊達政宗母が政宗毒殺を図ったというのは実際の事ではないらしいですよ?

SF短編小説

 ハヤカワ文庫のTwitterをフォローしていると、出版されるSFとかミステリーとかの新刊報告が流れてきまして、それで『同志少女よ敵を撃て』なんかも楽しみにしている作品ですが(自分は文庫版を購入する人)、それと同じようにTwitterの情報を数年前から見ていて、気になっていた本です。文庫版が出たので購入したのはゆうまでもないです。

 

 帯の煽り文句で、表紙イラストを描かれた方が『ヤバい本』と書いて見えました。表題に『敵』って単語があるところからして剣呑な感じですけれども、自分の感覚からすると「世間一般の常識と呼ばれる物から外れているひと」ぐらいな意味かな?

 表題作はどっちかというと作品世界の常識の方がヤバい。その世界では平行世界を感覚的に自由に移動できる人が普通。やろうと思えば右の眼で夏を、左の眼で冬を、歩き出した右足でアスファルトを、左足は砂浜を歩くなんて事もできてしまうぐらい、幾つもの、それこそ何千何万という平行世界にいる自分(なのか?)と立場を共有する事が、感覚的にできてしまう。でも中にはそれが先天的にできない人もいて、その人が世界に復讐する為に感覚的に平行世界へ移動(共有?)できる能力を消してしまう薬品を手に入れて、という話。

 そんなに便利な能力かなぁ?と思うけれども、いつでも別の平行世界の自分に入れ替わる事の出来る能力は、言ってしまえばリセマラできる能力だと。いつでもやり直しができる。別世界の自分の立場を気に入ればそちらで生活できる。失敗したとしても都合のいい世界を選んでやり直せる。科学技術もそんな感じで発達したところからおいしいとこ取りとかできて(ただし言語体系とか、計量体系とか、そもそも学術体系が異なるので、感覚的に理解していても、もとの世界に戻って他人にもわかりやすくアウトプットできるとは限らない、らしい)、つまり読者感覚からすると作品世界の方が「ヤバい」って感じ。

 この方の小説は、なんとなーく「世界が危機になる」というよりも個人の方がヤバい状況というか、すれ違いというか、切ない状況に追い込まれて、それを変化させようともがく感じですかね。

 収録作品の中で一番気に入ったのは最後の「ひかりより速く、ゆるやかに」。

 同級生が修学旅行で乗り合わせた新幹線が、突如何千分の一の速度で走るようになってしまい、たまたま修学旅行を欠席した生徒二人や、新幹線の中に取り残された人々の家族会とか何とか人々を助けようとしたり、でも後ろ暗い気持ちで諦めたり、葛藤したりする話。こういう話って、だいたい根本的な解決に至らず、なんとなーく登場人物がそれぞれ落ち着くところに落ち着くみたいな筋が多いのですけれども、え、そんなん?って感じで解決していくのが好きだったかなぁ。

 著者の方、名前は良くお見掛けするのですが、著作物の本を見たこと、あんまりないな、と思っていたら、どうも意欲的に短編SFを編纂して短編集として発行する事をされているようでして、「日本SFの臨界点」という名前で展開されています。長編小説は冊子化される可能性は高いけれども、雑誌などに掲載される短編小説は冊子化されずに散逸する可能性が高い。それを救い上げるという使命感を持っていらっしゃるようです。ご自分のSF小説摂取体験が短編集から始まり、それがあったから作家としての自分がいるから、という事で。

 自分はなんとなーく一人の作家さんに統一されていないと読んでいるうちに気持ちが散らばってしまう感じがして、複数の作家さんの作品を集めた作品集って、あんまり手に取らないのですが、でも逆に一つの作品を読み終える毎に気持ちがリセットできて、違う世界を楽しめる感覚になるかも知れません。

 そーんな事を考えたりしたり。

連休明け

 仕事が溜まっているのです。たぶん。まぁ主に配達面ですが。工場関係のお客さんは、どーせ機械を止めてしまうなら目いっぱい休んだれ、というお素敵な思考なので、暦通りの休日をしているこちらとしては、商品を納品できる状態にしても受け取る相手がお休みなのでは、連休明けにやる事が溜まるというものです。

 そんな訳で日記も慌ただしく書いています。書く時間を確保できるか自信がないのです。

 昨日の『鎌倉殿の13人』は壇ノ浦でした。源氏の軍勢視点で語られる為、知盛くんの出番はナシ。三種の神器安徳天皇の入水が淡々と行われ、それを見守る軍勢、そして義経の制止の絶叫。『戦しか能がない』不器用だけれども基本的には「いい人」演出が目白押し。梶原景時の讒訴理由は、「天に選ばれし頼朝と義経は、並び立つ事ができない」という確信によるもの。ただ景時君、義経の「暴挙」を止めなかったと御家人仲間からは評判が悪い・・・伏線は今回も張られています。

 あと腰越状ですけれども平宗盛が代筆した事になっていて・・・ええっと、ほんとに知らなかったのか、それとも細やかで致命的な意趣返しをしたのか、どうとでもとれそうです。義経、たぶん@一、二回の命・・・

 そして見た映画とか。

 

 自分、ガイ・リッチー監督は『シャーロック・ホームズ』から入った人間なので、明るめの荒唐無稽アクションものの人かと思っていたけれども、実はテンポの良いコメディよりのクライムサスペンスな人だったんですねー。WOWOWでその路線のガイ・リッチー作品が特集されていたのでいくつか・・・いや、全部か、録画して見ましたけれども、ノれたのは最新作のコレかな。北野武監督作『アウトレイジ』みたく、登場人物は悪党、というか白昼よりも薄暮~闇の世界に生きている人々ばかりで、しかしそれなりの倫理観みたいなものを備えており、何処で一線を越えるべきか、常に図っている感じ。あとは騙しあいが最後まで続いて最後まで判らない。続編作って欲しいみたいな事を解説の人は言っていたけど・・・まぁ薄暮の中にいる貧困層の若者にボクシングや武術を教えているコーチが、うんざりした顔でギャングの抗争に手を貸す様子は見てみたいかなぁ。

 

 タイムループもの。延々と暗殺者に襲われて殺される日常を百回以上繰り返す主人公の話。最初はSFアクションコメディかと思っていたけれど、OPが80年代ゲームっぽいし流し見て終わりにしよかな、と思っていたけれど、全部見ると、いい脚本でしたねー。ラストも好きでした。切ない。希望と絶望が半々って感じのところがいい。あとメル・ギブソン・・・少し落涙な感じ。でもかつて自分が演じた主人公を揶揄するようなセリフを聞いてにやにやしてしまった。

 半分居眠りしながら読んでいた『ヤバい本』の感想は明日以降です。

てきめん

 5/2は営業日で、入荷も多かったし荷捌きも多かったのですが、一仕事終えてふと手を見ると、荒れ荒れのガサガサで真っ赤・・・埃に弱い事が改めて認識されました。その後の三連休で持ち直しました。幸いな事に(ん?)今日はそんなに入荷物もないし、仕事も・・・どうかな?まぁ来週月曜日が忙しいのは、今から解っていますがネ。

 5/3は知り合いの方の自作マダミスに参加しました。九人プレイ、という事は登場人物九人の物語を作りこまなければならず、相互矛盾も潰していかなければならず、しかし明らかに犯人を指向する矛盾は残さねばならない・・・考えてみると大変だ。しかも参加者の選択でラストも明暗が分かれるようになっており、大変楽しかったです。まぁあたしゃね、オーナー(みたいな存在)が〇ソだな、と思ったので「ゼロから皆、やりなおそうよ!!」を選択したので、アレなラストになりましたが、アタクシの心の中では「やさしさに包まれたなら」のサビが鳴り響いていた事は書いておきます。なんの救いにもならんけどネ(てへぺろ

 5/4はベルギービールウィークエンドというベルギービールを飲むフェスへ。毎年GWに開催されていて、その頃の名古屋はまだ肌寒いから例年、そんなに人出を感じなかったです。チケット売り場で長蛇の列ってあんまり見た事がなかった。ところがこの日は、会場の人出もチケット売り場の長蛇の列も初めてみるほど多い。これは今年の春が日中夏日を記録するほど高温で、日本人、暑くなると麦酒飲みたくなる人種だからネ。

 ベルギービールは日本の大手メーカーのものと違ってフルーツフレーバー、チョコっぽいもの、度数が高いもの、味わいが全て異なるので、ゆっくり楽しむのに適していると思うですよ。毎年一度は行きたいでござる。にひひひ。

 んで昨日転寝しながら読み終えたもの。

 

 室町時代の秩序が維持された時代、義満、義持、義教、義政期の最新研究成果の入り口を案内してもらえる本です。だいたいわかっていたつもりですが、大名(だいみょう)と大名(たいめい)の区別を明確にしてもらえたのが大きいですかね。

 研究者の方が「守護大名」という単語を使わなくなって久しいのですが、その理由をきちんと教えてくれた本って今までなくて、どうも領域支配者として確立した江戸期の国持ち大名、その前段で「国王」と外国人から称された戦国大名、その更に前の時代だから守護大名ってイメージだったのです。戦国大名まではその理解でいいけれど、室町時代の守護は守護分国を一括統治する存在ではなく、警察と軍事指揮権を持っていて、その国の国人領主たちを指揮する権限はあるのですが、では彼らの主君なのかというと、ある人はそうであるけれども、別に守護を主君と仰ぐ国人領主が多数派という訳でもない。それどころか守護分国の中には将軍領地や将軍直臣の領主もいっぱいあって戦国大名とは比較にならないほど弱体なのです。

 室町時代では大名(たいめい)という用語が良く出てきますが、これは惣領とか有力者という意味で後年の領域領主である大名(だいみょう)とまったく異なる存在です。

 そんな感じで他にもいっぱい新事実が書いてありますが、それはご自身の目で確かめてね!!(あ、投げた

 

地獄エピソードが続く・・・

 『鎌倉殿の13人』第17回は源義高が殺されるエピソードでしたね。そこに工藤くんが出てくるんですか。「鎌倉は怖いところだ」という述懐。そうねー。まだ入り口ですよ。壮絶な内ゲバ北条義時が覇権を握って、最終的には承久の乱に勝利して、つまり日本の最強権力である事を証明するまで続きますよ。その意味では三谷さんが、大泉頼朝の出演シーンは序章に過ぎないというのは当たり前で、頼朝死後の内ゲバの方が頼朝生前の粛清が可愛く見えるほどの規模で起こるもんなぁ。

 しかし頼朝の態度は、物語的にこれから政権担当者に成長していく政子や義時に対する『教え』にも見える。大河ドラマって立身出世の物語は、だいたい爽快感や達成感の後にひずみというか、ゆがみというか、そんな感じで負の面が描かれるのだけれども、最初に内ゲバを勝ち抜き、畏敬される支配者となるためのレッスンが描かれるとはね。やはり三谷幸喜さんの脚本は一味違いますね。

 んで読み終わったものは同じ場所の、200年ほど未来・・・

 

 鎌倉を拠点とする東国武士の軍事力が、結果的に全国に覇権を唱えたのが鎌倉幕府なら、南北朝の対立から不本意ながら京都に本拠を置くことになった室町幕府からすると、もともとの根拠地である関東+東北地方を統括するのが鎌倉府でした。しかし、そもそも自分たちが本家みたいな気持ちが強いのではないかと思われる関東武士、それを統括している足利将軍家の分家である鎌倉公方家からすれば、「京都にいるからってデカい顔すんなよ」という気持ちがないとは言えない。その為、兄弟で協調する事を優先した初代以外は京都の隙あらば刺す!!みたいな感じ。その為、京都も鎌倉を制御する為に、あちらこちらに罠というか仕掛けを施しており、度重なる暴発の最後が享徳の乱って感じですかね。何故かというと、それまで幕府の権威で大規模動員をかけた京都側が未発も含めて鎌倉の反乱を鎮圧する形だったのが収拾しきれず30年もずるずる争ったのが享徳の乱であり、収拾できなかった幕府も応仁の乱によって秩序が崩れていくのですけれども、そもそも幕府が鎌倉→古河公方勢力を制圧しきれなかった事が原因。つまり、その前の二つの反乱の根本的な解決がされないまま、鎌倉公方を復活させてしまった、幕府側の政治的判断の甘さが響いている訳で、それは中央政局の収拾にも言える事で(当時の将軍義政周辺の政治力不足ということ)、中央が秩序を維持できないほど政治力が欠如している、それが表面化したのが『享徳の乱』ならば、これこそが戦国時代的状況の幕開け、といってもいいかもしれない。

 ただ戦国大名のような自己完結の『王国』を築くまでの勢力は一般的ではなく、伊勢宗瑞も享徳の乱後、十数年を経て関東に姿を現すのですから、線引いて用意ドンっみたいに時代区分は引けないって事ですね。

 関東は、鎌倉時代室町時代も、なかなか血の気が多いのです・・・

なんもない

 読み終わった本も見た映像作品もないので、てきとーに書きます。

 この夏、参院選挙らしいので、始まっちゃったら書けないから今のうちに書きたいことを書いてしまうと、政党には投票したくない。自分の視点から見ていると政治家稼業の八割がたは、会議に出席して居眠りして、濡れ手に粟で高給をとっている人にしか見えないし、「ウクライナ感謝しろ」とか「昭和天皇ヒトラームッソリーニと並べるとは何事だ」とか言い出すとんちきな人に過ぎない。「ウクライナ感謝しろ」なんて、何故ウクライナを支援するのか、その根本的な理由を理解していない事の暴露だし、後者に関しては抗議ではなく、どうして昭和天皇ヒトラーと並べる事が不自然なのか説明しろよ、とか言いたくなる(日本の全体主義は一人の独裁者によってもたらされた解りやすいものではなく、ノリというか同調圧というか、当時の日本社会全体が軍部や複数の政治家の煽動によってもたらしたとも言えるので、天皇一人の責任か、というと微妙な気もする。責任者の一人という感じ。それも全体主義への流れを変えられなかった責任者ってイメージ)

 政党に投票するというのは、そこに属する自分が投票したくないとんちきな人に投票してしまう事になるので、だから政党という大くくりなものに投票したくないです。

 最近思うのは、どうも自分が嫌いなのは権威主義者という奴で保守派ではないな、という事。命令だから、とか、皆がやっていから、とか理屈や損得を説明せずに道義や倫理に逃げて権威で自分を従わせようとする存在を拒否したい。そしてそういう存在は、どんな政党でも社会にも存在していて、名指しで一つの政党とかを非難して済む問題でもない。左派にも野党にも権威で他人を黙らせようという人間はゴロゴロいる。そういう人間には投票したくない。

 そんぢゃどうすればいいのか、と考えると、自分の考え方に似ていると判断した候補者個人に投票するより他ない。政党の看板だけで当選しようなんて考えている人間は排除したい。では候補者個人の考えはどうすれば解るのか・・・自身のHPを持っていて、政党の政策以外を書いている人間を見つけるぐらいしか方策がなく、Twitterとかで回ってくる政治家発言を注視する他ない。幸いTwitterって似たような傾向の発言が集まってくるので、そこから判断する事はできますが、国政に出る政治家の中に自分が支持したいと思える人の少ないこと・・・

 自分が最低ラインで判断するのは「表現の自由」を確保する。とりあえずこれを訴えている人には投票しようと決めています。権威主義者は発言を禁ずるところから始めてくると思うし、何より多様な物語を読むことが喜びの人間としては、倫理や正義を振りかざして規制してくる存在こそが忌むべきものであると思うので。都議とか都市部では結構おいでになるけど、地方ではそういう意識はやっぱり乏しいのかも知れない。それでも自分が望む最低ラインが「表現の自由」なのだから、それを公約する人々に投票するぐらいしか政治に参加する事はない。しかしそれで権威主義者の活動が阻害されると思うならば、それぐらいしかないですよね。

 自分が二十代の頃と比べるとオタクの市民権は大きくなったけれども、まだまだ異端視される存在だし、自分も果たしてオタクと名乗れるほどの知識量があるのか甚だ疑問なのですが、表現が規制された社会なんて窒息してしまうから、それがこないようにしていきたいものです。

our hope

 最近はCDを購入すると車のHDDにぶちこんで、周回で回ってきたら聞く、なーんて事をしていたのですが、久しぶりに入手したその日に全曲聞きましたよ。

 

 このアルバムに入っている『光るとき』


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と『マヨイガ


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が好きなのでっていう事もあるのですがね。

 『マヨイガ』はアニメ映画の主題歌らしいです。アニメのPVも見たけれども、『マヨイガ』の楽曲ほどには自分は『マヨイガ』を感じなかった。なんの事は解りませんか?そうですね。両方見ないと判らないですよね。自分も映画全編を見ていないのでアレですが、PVを見る限り行き場のない少女とかが田舎の一件屋に引き取られ、そこがモノノケとかが憩う場所で、居場所を見出したら、なーんか禍々しくてラスボス感あるモノノケが襲ってきた、みたいなストーリーに自分には見えました。

 羊文学の『マイヨガ』は自分にはそのアニメPVよりも黄昏感を強く感じて、夕凪、薄暮の少し怖くて、少し期待するドキドキ感があった頃を思い出すのです。昼間の光や夜の闇の狭間にある、あの感じ。あとねー、歌詞の「君の明日はどうしたってやってくる」とかが好きなんですよ。どうしたってやってくる、っていう情け容赦のなさがね。そういう意味ではないかも知れないけれども、少年少女の時代なんて、どうしたって過ぎ去っていくのだから楽しみなさい、みたいな感じ。

 『光るとき』はTVアニメ『平家物語』のOPに使われていて、もうPVの頃から鷲掴みにされましたよ。「最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても」で久しぶりに涙腺刺激されました。うるっとね。流れないけどね。バックのOPアニメの平家一門が穏やかで笑っているから、この人たち、皆・・・と思うと余計にね。ヤラレタ。

 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も自分にはツボで凄いけど、ほぼ同時代平家視点の『平家物語』が同じようなタイミングで放映されたのは、ほんとうに嬉しかったなぁ。それぞれのキャラの描き方の違いもね。

 最後にとどめを刺された『平家物語』第2弾PVをあげておこう。セリフのつなげ方に「本編とちゃうやん」という突っ込みもあるけれども、これは凄いので。本当に凄いので見てみて~、という気持ちです。まぁ自分が言わなくたって皆見ていると思うけど、念のため。今年はおいしい創作物に良く出会うよなぁ・・・


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