pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

『老害』忠興

 読み終わった後の感想を率直に言うと、そんな感じでした。

 

細川忠利: ポスト戦国世代の国づくり (歴史文化ライブラリー)

細川忠利: ポスト戦国世代の国づくり (歴史文化ライブラリー)

 

  細川ガラシャの旦那で、武将であり歌人であった細川藤孝(本人は長岡藤孝って名乗った期間が長いのかな?)の息子であり、青年期から信長に認められた細川忠興の三男。小倉藩から熊本藩に、平時では珍しい大加増を受けたのが、この細川忠利でした。

 この人物、関ケ原戦の時から徳川秀忠に尽くし、その為、家康暗殺未遂事件で嫌疑を受けた前田利長妹と結婚していた長兄が隠退を迫られ、彼と家督を争った次兄興秋が出奔した為、細川家の後継者となった訳ですが、親父の忠興がいつまでたっても引退しないという・・・

 だいたい室町戦国期では後継者が二十代になったなら前当主は隠退し、隠居として外交や戦略分野を担当。後継者は内政を中心に経験を積み、いずれ死没する『ご隠居様』の後見を受けつつ当主修行をする、というパターンなのですが、忠興くん、本人が五十代を過ぎ、息子忠利くんが三十過ぎても当主に居座り続けているという・・・

 生命にかかわる病を二度経験し、まぁしゃあないと隠退してようやく忠利は三十二歳で当主になりました。その時の小倉藩の状況は、二十数年前の検地を下にした実態の合わない課税で、領民がひいひい言っているという。もちろん忠利も領民に優しい訳ではありませんが、年貢の取りすぎで領民が逃散したり、一揆を起こされてはたまらないので、今でいう国税調査を行い、収入の実態に即した税を課し、過重な税をとっていた庄屋などを処刑したりして平時の体制確立に尽力しました。

 とは言え当時は頻繁に飢饉が起こっていた時代であり、また江戸初期の大規模土木工事を『軍役』として課せられた時代です。細川家の家計は火の車でしたが。

 それでも当時熊本藩加藤清正の息子の統治よりは評価されていたらしいです。というか、加藤清正家が改易されたのは、その統治が放漫であり当主は無気力感に襲われ不正がはびこっていたからのようで、これはダメだと幕府に見切りをつけられたのが原因のようです。

 それだけ細川忠利の治世が当時としては『公正』と評価されていたのでしょうか。

 さて、そんな統治に悪戦苦闘する息子をですね、助けるどころか足を引っ張るのが忠興でした。隠居領地を何万石ももらい、その統治に息子の政府は関与させず、つまり集権的な統治を拒否し、自分の死後はその領地を別家として独立させようとするし、忠利気に没した時には家臣たちから、継承問題に介入するのではないか?紛争に発展するのではないか?と警戒され、忠利家臣たちは『決して忠興様には仕えません。スパイ行為もしません!!』と誓詞を提出する始末。

 こういう事は室町時代から、つまり家督継承が制度化されている大名家ではありません。つまり家政が成立していない出来星大名の中で起こる訳でして・・・はい、細川家も出来星大名という事です。