pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

暇すぎる

 遅れてきたコロナ不況なのか?とても暇なので日記書けちゃいます。書きます。

 

松井友閑 (人物叢書)

松井友閑 (人物叢書)

 

  読み終えた本は自宅です。なので手元にはないです。

 昨日の日記にも書きましたが、もともと清州の法体町人(頭を丸めている)で信長の踊りの師匠だったそうです。また連歌茶の湯にも通じており、そこから文化顧問、交渉役、さらに多くが茶人である堺の商人たちと渡り合う堺代官を担い、畿内の公家、寺社、商人、武士と、文化的なつながりを持つ相手の交渉役をしていました。また病状を心配した信長に医者の手配をされ、その医者が遅いと催促するような行動を信長がとったのは(記録に残っているのは)家臣では彼のみだったようです。

 しかし出自はおろか親の名前、子孫についても不確定で、松井という姓も後世の軍記物の記載で確かな事は、徳齊、友閑という名乗りと、宮内卿法印という位階のみ。

 たぶんこれは、室町から続き信長が好み、友閑がプロデュースした唐物道具の組み合わせで楽しむ『大名茶湯』というものが、戦乱による一級道具の消失と千利休による「わび茶」の推奨により廃れていき、影が薄くなったからではないでしょうか。しかし道具の置き方を記録したものには、友閑が実際の茶会で棚に並べた道具、位置などが残されていて、その美的センスは後世まで伝承されているようです。

 意外だったのは佐久間信盛の追放が、どうも本願寺との最終的な和睦交渉に置いて、本願寺方面軍司令官ともいうべき佐久間信盛がちっとも役に立たなかったようで、並んで交渉役となった友閑が本願寺側と条件を詰め、受諾させたようで、そこから佐久間信盛、信栄父子の不手際がボロボロ発覚し、汚名返上の一戦を行うか、高野山にでも行ってしまへと信長に言われてしまったという。

 文化面、外交面での友閑は、まさに信長の懐刀でした。そして軍記物ではなく、同時代人の記録に本能寺の悲報に触れた友閑が正体もなく、動転して嘆き悲しんだ様子が記されており、信頼しあっていた君主関係だったのだな、と思いました。

 その後は次第に秀吉政権になるにつれて、茶道具は奪われ(信長は好みの茶道具を友閑に当たらせ、持ち主に手放す意思があるのを確認した上で、買い上げ、もしくは贈答されるという手段をとっているので、名物を残らず召し上げる『名物狩り』ではなかったようです。秀吉は、とにかく信長や織田家旧臣の持つ名物を手当たり次第に召し上げた。自分の権威確立のためです)、堺代官も退き、京都に隠棲して、最後は秀吉の連歌会に参加するぐらいが公的な活動だったようです。没年は不明ですが1603年だったかな、彼の京都の屋敷が細川氏に買い上げられているので、たぶんそれまでには亡くなっているのだろうと。

 信長の本当に信頼する家臣は彼だった、という事が印象的で、三谷幸喜さんあたりに友閑から見た信長の物語とか書いてくれたら嬉しいなぁ、と思いましたよ。

 あ、ランドリオールは月曜日にします。