pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

なんぢゃこいつら・・・

 この本を読んでいる最中に何度も感じた事です。

 

  江戸時代の天皇を含めた公家って、政治軍事はもちろん、領地を持っているものはともかく、給米を受けているものは経済的な問題にもほとんど実務をせず、やる事と言えば学芸に関わる事ばかりで、まぁ伝統芸能+古典学者みたいな立場なのですがね、幕末に幕府が黒船来航時に「天皇のご意見も尊重しますよ」という半ばリップサービス的な事を言った為に、俄かに天皇の「攘夷」という意思がクローズアップされ、その意思に従えない幕府に対する不満やら意見やらを公家たちが主張したというのが、自分の印象です。

 しかし、「なんぢゃこいつら」という印象がどうしてもぬぐえない。実際の現場で問題を処理する意思も能力もない彼らが、一人前の顔で「攘夷」を主張する様が、最近どこかで見たような気がしまして、あ、っと気が付いたのが、これはマスコミの姿に似ているのだな、と。コメンテイターとして表れて意見を述べるタレントやら学者の肩書を持っている人々は、大半が現実にその問題を処理する能力を有する訳でも、その立場にいる訳でもありません。だけれどもTVやらTwitterやら新聞、雑誌の紙面において、それぞれの意見、主張を繰り広げています。

 なるほど朝廷という連中は幕末におけるマスコミと見ればいいのかな?と。

 もちろん実質的な役割を果たした者もいます。命がけで命令を伝達する者もいましたし、「王政復古」の際には政治力を発揮して調整したり、事務処理を行うものもいました。しかし彼ら自身が目指すところは往古の儀礼社会であり、列強との厳しい競争にさらされる、つまり国際的サバイバル世界に適合するとは言えないものでした。故に伊藤博文あたりから「馬鹿華族」なんて言われてしまい、明治維新後の政府から、ごく少数の例外を除いて表舞台から姿を消す事になります。

 華族爵位制度での線引きを、過去数百年の官位実績やら始祖がいつから家を始めたとか、そんなところで判断されても困る、というのが伊藤博文の本音で、イギリス的な議会政治を目指していた彼からすると上院に相当する貴族院には世襲貴族よりも、政府で主導的な役割を果たした経験豊かな人物に属して欲しいと考えていましたから、能力も意欲もなく、世襲議席を得る連中は極力制限したいところ(公爵、侯爵のみ世襲で無給。それ以下の爵位は互選で有給)。なので、さすがに摂関家あたりは公爵を与えますが(公家社会からガタガタ言われるから)、それ以外は維新後の政府要職についたもののみ陞爵させ、それ以外の有象無象は子爵、男爵という低位爵位に。そこから這い上がろうとするならば、『富国強兵』政策に貢献する事を求めるという冷徹な現実でした。

 そうでないと困るしな。

 でも貴族院というものが「経験豊富な政府高官経験者によって構成される議会」という趣旨からすると、その後を受けた参議院というものがいかに趣旨にそぐわない存在というのも理解できます。どっちかというと有識者ではなくタレント性で候補者が選ばれている感じがする。なーんかこれは幕末時の公家社会の持って回った復讐かしらん?と思うのは、アタクシがひねくれているから、かしらね?