pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

この時間なら自宅で書け、と?

 午前中に先月末締め請求書を起こしながら、荷受けをして準備をして、棚卸の真似事をし(種類ばかり多いメーカーの商品だけやりました)、その他諸々をやったら午後三時半になりました。うちは四時半には完全撤収ですから終盤です。はい。

 日頃体を使わないのに重い綿100%の商品が詰まった段ボール箱四つを上げ下ろししたので、息が上がっていますよ、はい。肩こりが多少解消されるかなぁ。

 タイミングが合えば本の返却もしたかったのですが、そんな訳にはいかず、読み終えた本は昨日購入した一冊だけです、はい。

 

イマジナリー 1 (楽園コミックス)

イマジナリー 1 (楽園コミックス)

 

  煽り文句は『幼馴染の恋はややこしい』みたいな感じでしたが、二十歳前後の登場人物たちの、ゆるーい日常的なエピソードがほとんどで、幼馴染で、昔からの付き合いで、気は合うけれども、次の一歩が踏み込めない・・・というか、それ以前の問題で踏み込み方すら解らん!!という二人が軸といえば軸。そんだけストレートな恋物語にはならない様子なのに遠距離・・・しかもあとがきでばらされますが、津-名古屋という、微妙な距離感の遠距離。

 確かに津-名古屋間って近鉄特急だと一時間ちょいでしたかね?近距離とは言えないけれども、移動が旅行のカテゴリーに入るかというと、そんな事はない。日帰りができる。男の方がラジコンショップに行くついでに彼女の部屋に行きたいと言い出して、彼女の方も名古屋でできた女友達たちの荷物を撤収させ(距離的に学校に一番近く、他の友人たちの住処からほぼ等距離らしい)、何とか体裁を整えるけれどもお互い踏み込み方が解らないから、だべって終わり、という。

 『イマジナリー』という題名は、登場人物たちが妄想で遊んでいるシーンが多いからですかね。その妄想世界で遊ぶ様が面白いというかなんというか。

 あとは津って、そんなに〇〇かね?県庁所在地だけど、津近郊の田園地帯だからかな?(田園=田舎といってもいいのか?あ、書いちゃった)車がないと始まらないという愚痴が彼氏とその妹で延々繰り返されるシーンとか面白い。高校生らしい妹は随分無防備だが、エ〇マンガではないので見慣れた兄の方もスルーであるし、妹も気にした様子はない。というか、そのシーンで不意に彼女からかかってきた電話にいそいそと出るけれども、山なし落ちなし意味なしの妄想話をされて困惑しているとか、なんか、こう、微笑ましいレベルの残念さがたまらぬ・・・

 ゆるーい感じの話はほっこりして良いですのぉ。

小説ものは読み終えるのも早い

 自分が好きなジャンルで好きな作家さんばかり選んだからですな。自分に合わない人だと、四苦八苦になりますからね。

 

昨日の海は

昨日の海は

 

  読んだのが文庫版ではなかったので。

 近藤史恵という方の作品は、自分にとっては苦みとか酸味とかの向こう側に優しさを感じるものが多くて、この作品は優しさのベールの向こう側に隠された家族・・・血族の暗部というか葛藤というか、憎悪の渦というのか、そんなものを感じます。

 個人の存在は自分よりも上世代からの恩恵だけでなく、負の財産というのも必然的に受け継ぐものであり、アタクシ自身も大なり小なり上の世代、特に祖父がメンテナンスしなかった血族の桎梏のようなものを眺めて、特に前半生生きてきた事になるので、なんとなーく、このわだかまりというのか、飲み下せないものというのか、そんなものを理解したりするのです。家族、血族から受けるものは恩恵だけでなく、憎悪や桎梏もあるのだと、実感できる人っているよね、たぶん。

 

名古屋駅西 喫茶ユトリロ (ハルキ文庫)

名古屋駅西 喫茶ユトリロ (ハルキ文庫)

 

 

 

  こちらは上述の作品と打って変わって血縁的には恵まれている方です。少なくとも曾祖母、祖父母との間には軋轢はなく、あるとすれば主人公が再婚した父親に対して、わだかまりがあるという感じ。日常的な謎解き系でして、ほんわか、ほっこり系ですね。最近最新刊が出たようですが、図書館で借りたのでそれは読んでいません。

 先行きどうなるのか気になるけど・・・買うかどうかは・・・本棚から溢れている状況だしなぁ・・・うーむ・・・

 

あとは野となれ大和撫子 (角川文庫)

あとは野となれ大和撫子 (角川文庫)

 

  以前にも読みました。宮内さんの作品はシリアスというか、心に切り込んでくる感じがするのですが、この作品もそういうところがあるのですが、爽快感が勝りますね。映像作品にすると、ちょろりと焦点がぼけてしまうような気もしないでもないですが(映像作品をつくる才能もない奴の言葉なのでキニシナイで)、アラル海跡地にできたという架空の国家のお話で、あのあたりにありそうな問題とか、ほっこりする話とか、女性だから下に見られるとか、そういう事もひっくるめて、前に向かって歩こうという人々の話です。

 読みたかったから借りました。いいよねぇ。にひひひ。

読書スピード

 一般向け学術書を読み終えて小説にとりかかると、なんというか物凄く読書スピードがあがります。たぶん、ト書き部分で読み飛ばしている可能性がありますし、文章の調子が良いというのもあります。少なくとも自分にとって読書リズムがあっている作家さんばかり選んで借りている事もあるし。

 とはいえ、日記に書く分量は学術書の方が多いのは、小説はあらすじ書いちゃまずいよねーっという気持ちが働いているからでしょうか。

 なのでこれ。

 

  刀やら帯刀やらの意味を明確にした上で、その意味を論じています。

 江戸初期は自助自衛しないと殺されるという意識の下、武装できる人間は階層の区別なく二本差しをしていました。島原の乱の後は自衛の為の武装という意識が薄れ、ファッション性が進み、反りがなくなり抜きにくい棒状に近くなり(このあたりから武器?という感じになる)、金銀装飾が増えて実戦向きではなくなっていきます。

 誰も彼もが派手な装飾として身に着けるようになり、華美を危惧した幕府により武士階級以上と帯刀が禁止され、江戸中期あたりから二本差しが身分標識となります。ちなみに禁止されたのは二本差しであり『脇差』と称すれば刀と見まごうばかりの長脇差だろうと、問題視されなかったみたいです。とはいえ一般庶民が脇差を携えるのは武器というよりも礼装の一部と認識されていたみたいです。武士の二本差しが正装の一部と認識されたように。

 時代劇でネタになる武士による無礼討ちは暴言に対する行為であっても追放罪。泥酔などの前後不覚による加害なら死罪でしたから、武士階級が庶民を虐げた事例には(少なくとも法令に残る範囲では)ならないようです。

 庶民にとって二本差しは上流階級の指標となり、有体に言えば見栄、名誉心を満たすアイテムとなったのですが、これが幕末になると状況が変わります。テロの横行により、身分標識から忌むべき凶器へと認識が改まります。

 その後明治政府は献金や寄付金などで幕府により苗字帯刀を許された人々を士族から排除する為に帯刀禁止を発表しますが、次第に役人の服装が洋装になっていくと帯刀が行動の邪魔になり身分標識としても不要のものと認識されるようになります。そこで全面的に廃刀令が発令されたと。しかしここで気をつけなければならないのは佩刀として外出してはいけないのであって、蔵やら家やらに所持している事は罪にはならなかったらしいという事で、刀それ自体は市中に残っていたようです。日本人が現在のように完全に武装放棄したのは戦後米駐屯軍の勝者としての武威を背景にしなければ達成できませんでした。

 ただし幕末のテロの嵐の記憶は忌むべきものとして残り、『文明開化』に劣る『旧弊』な旧体制の凶器というイメージがしばらくあったこと(このイメージの旗振り役の一人が福沢諭吉で本来なかった『切り捨て御免』という言葉を創造し武士階級の横暴の象徴として刀をクローズアップさせていた)。のちに反動としての日本刀の復権は起こりますが、それは武器としての復権であり、身分標識としてではない、って事ですかね。

宴の日々はオワタ

 妹家族が来ると、毎晩がそんな感じになります。んで葡萄酒の空ボトルがね、回数×二本みたいな感じで残されます。明日は瓶、缶の収集日ですから、結構重い荷物を持って歩く事になります。大した距離ではないけれど。

 それでも見たもの、読んだものはアリマス。

 

  プラモはいらないので購入したのは上下巻にまとめられたものですが。

 一昨年と昨年にYouTubeオリジナルで公開されたアニメです。一話十数分。ある日突然、異星人と称する存在が、石灰石一トン分と引き換えに、全高2.5mの二足歩行、二本腕のロボ?のようなものを取引すると、全世界に向け五か国の言語で通達。最初は面白半分に取引した人々が、その安価さと、農耕、運搬、そして戦闘に用いる事のできる汎用性から発展途上国を中心に広まり、そしてその軍事利用が西側諸国、特にアメリカの軍事的優位を脅かしていく。

 注目されるのが性能云々ではなく、安価である事と、修復の容易さで、特に市街戦やらゲリラ戦において戦車や戦闘ヘリという現代における主力兵装を圧倒する、という描写。虐げられ搾取されるばかりと弱い立場の者たちに、希望をもたらすという展開。しかし同時に既得権益者、秩序維持者からすれば、対抗策を講じなければならないにも関わらず、軍産複合体からすれば完全に利権から外れる物件故に前向きではない、無視しようとする姿勢。

 世界の秩序が崩れていく・・・そんな短編物語というべきなのかな。何かしらの結末が用意されているのかなぁ、と思いましたが、シリーズ構成、脚本を担当している虚淵さんが、芝居を削り落として状況を描きたい、と述べているので、あ、この企画は一応これで完結なのかな、と。最終話がねぇ、自らの作品「マギカまどか」のパロディみたいな話だったしナ。初めてYouTubeで見たときは、番組間違えたかと思ったものねー。

 本当は物語としての結末を見たいと思いますが、最初から考えられていないなら、妙な辻褄合わせの結末を見せられるのもアレだし、これはこのままでいいのかな?

 あ、読んだもの書く時間がなくなってしもた。

身内接待中

 なので、普段よりも酒量が多い・・・かな?なので結構睡魔が襲い掛かってきます。何もかも自宅でははかどっておりませぬ~。昨日届いたYouTubeで公開されていたアニメ『OBSOLETE』のBD-BOX二つも、今夜?明晩?に見れるかなぁ・・・自分の覚醒力が問われる・・・(そんなもんがあるのか?

 付属の本を読んでいたら、あ、虚淵さん、オチつける気ないかも知れぬ。こういう状況の群像劇という事で話を起こしているらしいので、物語は付け足しっぽく、物語の行きつくところは想定していなさそう。こちらとしては、従来の秩序が崩壊していき、それの行きつく先を描いて欲しかったけれども、改めてTV画面で通して見たら、何か見えてくるかな?

 それ以外は『刀の明治維新』という本を読んでいますが、まだ江戸時代の状況説明段階で、そろそろ江戸後期に入るところ。初期は誰もが自衛しなければならなかった戦国時代の気風があり、武士だろうが町人だろうが百姓だろうが刀を下げていた、と。秀吉の『刀狩り』は額面通りの方広寺大仏殿建築の為の有志であって、豊臣政権に当時の庶民に自衛手段を強制的に奪うだけの権力はなかったというべきでしょう。

 そして島原の乱後、戦乱が終息すると今度はファッションとしての佩刀が流行りだし、抜いて切りつけやすい反りがついたものではなく、棒状に近い、装飾が施されて華美になった刀を身に着けだした、と。

 最初は贅沢を批判する立場だったのが、だんだん身分標章になり、士分以下は許可された者でなければ身に着けてはならない、その頃から帯刀という言葉が派生した、というところまで読みました。ま、江戸時代も長いですからね。初期、前期、中期、後期、晩期と世相も異なりますからね。

 あともう一つ、戦記ものかと思ったら冒険ものだった小説を自宅で読んでいるのですが、最初に、草原地方に三十万の兵が侵入ってエピソードがあって、「勝ち申した」って思ったんですよ、草原側が。三十万の補給が、生産性の悪い草原に侵入したら現地調達で間に合う筈もなく、補給線を叩きながら逃げ続ければ、三十万の鈍重な軍勢など自壊していくわー・・・って思ったら、結果は逆でね。魔法みたいな兵隊で草原側が全滅していく記述(描写ぢゃないなーっと思った)があったので、あ、補給とかそんな話題をぶっちしているから、これは冒険物語なんだーっと理解した瞬間、睡魔に勝てなくなった自分が、ガガガガ・・・・

 その後の展開を拾い読みしたら、ちょっと興味がわいたので、とりあえず購入した本は読み終えるつもりですが、三部作全部読むかどうかは、まだ未定です。

 そんな感じで来週までに一冊以上は読み終えたいなぁ、と。

なんぢゃこいつら・・・

 この本を読んでいる最中に何度も感じた事です。

 

  江戸時代の天皇を含めた公家って、政治軍事はもちろん、領地を持っているものはともかく、給米を受けているものは経済的な問題にもほとんど実務をせず、やる事と言えば学芸に関わる事ばかりで、まぁ伝統芸能+古典学者みたいな立場なのですがね、幕末に幕府が黒船来航時に「天皇のご意見も尊重しますよ」という半ばリップサービス的な事を言った為に、俄かに天皇の「攘夷」という意思がクローズアップされ、その意思に従えない幕府に対する不満やら意見やらを公家たちが主張したというのが、自分の印象です。

 しかし、「なんぢゃこいつら」という印象がどうしてもぬぐえない。実際の現場で問題を処理する意思も能力もない彼らが、一人前の顔で「攘夷」を主張する様が、最近どこかで見たような気がしまして、あ、っと気が付いたのが、これはマスコミの姿に似ているのだな、と。コメンテイターとして表れて意見を述べるタレントやら学者の肩書を持っている人々は、大半が現実にその問題を処理する能力を有する訳でも、その立場にいる訳でもありません。だけれどもTVやらTwitterやら新聞、雑誌の紙面において、それぞれの意見、主張を繰り広げています。

 なるほど朝廷という連中は幕末におけるマスコミと見ればいいのかな?と。

 もちろん実質的な役割を果たした者もいます。命がけで命令を伝達する者もいましたし、「王政復古」の際には政治力を発揮して調整したり、事務処理を行うものもいました。しかし彼ら自身が目指すところは往古の儀礼社会であり、列強との厳しい競争にさらされる、つまり国際的サバイバル世界に適合するとは言えないものでした。故に伊藤博文あたりから「馬鹿華族」なんて言われてしまい、明治維新後の政府から、ごく少数の例外を除いて表舞台から姿を消す事になります。

 華族爵位制度での線引きを、過去数百年の官位実績やら始祖がいつから家を始めたとか、そんなところで判断されても困る、というのが伊藤博文の本音で、イギリス的な議会政治を目指していた彼からすると上院に相当する貴族院には世襲貴族よりも、政府で主導的な役割を果たした経験豊かな人物に属して欲しいと考えていましたから、能力も意欲もなく、世襲議席を得る連中は極力制限したいところ(公爵、侯爵のみ世襲で無給。それ以下の爵位は互選で有給)。なので、さすがに摂関家あたりは公爵を与えますが(公家社会からガタガタ言われるから)、それ以外は維新後の政府要職についたもののみ陞爵させ、それ以外の有象無象は子爵、男爵という低位爵位に。そこから這い上がろうとするならば、『富国強兵』政策に貢献する事を求めるという冷徹な現実でした。

 そうでないと困るしな。

 でも貴族院というものが「経験豊富な政府高官経験者によって構成される議会」という趣旨からすると、その後を受けた参議院というものがいかに趣旨にそぐわない存在というのも理解できます。どっちかというと有識者ではなくタレント性で候補者が選ばれている感じがする。なーんかこれは幕末時の公家社会の持って回った復讐かしらん?と思うのは、アタクシがひねくれているから、かしらね?

立て込んでいる時に忙しくなる

 今日、妹家族がやってくるのですが、午後四時半過ぎ名古屋駅到着だそうで、そういう時に限ってね、配達が立て込んだり、入荷が多かったりするのですよ。もっと暇な時にお出で遊ばせばよひのに(あ

 とりあえず一番面倒・・・いやいや遠いお客さんへは午前中に向かい、残りは午後一時出発予定です。今現在は十二時四十五分ぐらい。そうすれば時間的余裕が生まれる筈・・・なのに、こうして時間に急き立てられるように日記を書いているオイラは病気ですな(あ

 まぁ読み終わったものでも。

 

  ファンタジー作品に登場する長命な魔法使いって、蘊蓄だけで実戦には役に立たない方が多いような気がしますが(誰とは言わぬ)、フリーレンって即応力高いですね。恐ろしい判断能力ですわ。まぁ見た目少女だし、性格はものぐさだし、趣味は役に立つのか立たぬのか、良く解らない微妙な呪文収集だし、アレな人ですけれども。

 全体的に漂う印象がフリーレンの思い出みたいなところがあって、現在進行形の話でも、人よりも遥かに長命な(一見すると不老長寿である)エルフの彼女にしてみれば、慌ただしく生きて死んでいく人々は、彼らとの生活そのものが全て思い出になってしまうのは致し方ない気もします。

 そういえばTwitterで「週刊漫画はとっくに限界」みたいな話が流れてきましたね。確かにね、自分が子供の頃に比べれば設定にも厳しくなったし、画質も上質のものを求められるようになり、これを週産8Pのペースを守るというのは(もっとか)、漫画研究会に属して実際の作画やらなんやらを目にした事のある自分からすると、殺人的といってもいいぐらいです。

 『葬送のフリーレン』は原作と作画が分かれていますが、それでも作画レベルは高く(背景の書き込みが細かいと思う。たぶん技があるのでしょうが)、大変だなぁと思うのですが、構図のパターンに乏しいと感じる時もあって、まぁ、これぐらいは許さないと、たぶん作画なんてできないよねー、とか思ったり。

 話の展開で試験ものになりましたね。少年漫画の王道展開ですね。なんかワクワクしている自分を見つけて、ちょっち戸惑っていますよ。まぁ次巻が楽しみです。

 

  あら。いつも主人公より前を走っていた、お姉さんが大変ですよ!!まぁ何とか精神的には立ち直れたようですが、さぁて、どうするんでしょうねー。ま、スポーツものは絶対に主人公が最終的に勝つようにできているので、安心して読んでいますけどネ(おーい