pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

今日は文章系

 読み貯めておいた本の感想です。

 

皇位継承の中世史: 血統をめぐる政治と内乱 (歴史文化ライブラリー)
 

  タイミング的に五月の譲位前ですね。なので天皇家皇位継承がどんなものだったのかを改めて確認するのにはいい感じ。

 古代、存在が確認でき、その後の皇位継承が明確なのは継体天皇からでして、この頃は天皇を父に持つ息子がすんなりと継承できた訳ではなかったようです。継体天皇には確認されている息子は三名ですが、もっとも即位を期待されたのは三男で、畿内王族を母に持つ欽明天皇。しかし継体天皇の死没直後は若すぎる為、長男、次男が継承し彼にバトンタッチします。ちなみに長男次男は尾張の豪族出身の母を持ち、子孫はその後の継承候補にもなっていません。名前すら残っていないので実在したどうかも不明です。

 つまり父方のみならず母方の血統も重視され、なおかつ四十代前後まで経験を積んだ人物が望ましいとされていたのですね、皇位を継ぐ者は。また継承者を前任者の天皇は基本的には選ぶ事ができず、豪族たちの支持を得なければ即位できない。政治指導者としての信用を持たない天皇は拒否されるという事です。

 この状況が変化したのは推古天皇でした。彼女は皇族であり、天皇の后として経験を積み、そして生き残った皇族で四十代前後という最適者でした。そして三十年以上の在位は、その存在をより権威化させ、彼女の意思が政治決定に大きな影響を及ぼします。つまり初めて自分の意思で後継者を決定した天皇となりました。ただその判断は当時の常識に則ったもので、彼女より下世代の中の最年長者である舒明天皇を選択しています。

 次に大きな変化が起きたのは壬申の乱で勝利した天武天皇以降で、ここで初めて血統的な継承、つまり前任天皇と后の間に生まれた子孫による継承が企図されます。しかし継承予定者の夭折が重なり上手く行きません。直系子孫の断絶後(というか陰謀で失脚させた)即位した本来傍系の桓武天皇も努力しますが、時の権力者の思惑により、父子相続というものはなかなか定着しません。院政期に疑似的に父子相続は続きますが、主導権を握ろうとする家父長の上皇法皇と、成人して政治的自立をはかる天皇が対立すると成人天皇の血統は継承から排除され、つまり院政を行う者の都合の良い皇族に継承されるという事です。

 結局父子相続が定着し常識になるのは、天皇家が権威のみの存在となり、政治も財政も武家政権におんぶにだっこという存在になって初めて実現するという、なんか、フランスのカペー王家とは真逆の状態なのが面白いですし、だからこそ日本の天皇家は現代まで続いているとも言えるのかも知れません。

 

  つい最近まで、いや、今もゴタゴタしているイメージの国アフガニスタンですが、それが認識されたのが十八世紀で、それまでは遊牧民の集団の都合でイランだったり、中央アジアだったり、インドだったりの一部になったり従属国だったりしていたようです。ただ十八世紀になっても一体感のある国民国家になった訳ではなく、国境の氏族なんかはアフガニスタンと隣国の政府を天秤にかけて、どちらにつく事が氏族の利益になるのかを判断して、あっちについたりこっちについたりしており、それが原因の一つとして国境が不安定であるようです。

 ま、元が遊牧民集団だから、農耕民的な国境の概念で図る方がおかしいし、それに国民国家なんてまやかしー、とも言われる昨今ですからねー。

 ただアフガニスタンは十九世紀よりロシアとイギリス、そしてアメリカの、つまり大陸勢力と海洋側勢力の綱引き場となったようでして、あ、どっかの隣国みたいですね。つまり不安定になるのも必然なのかなぁ、と。