正直言って、回線容量をケチっているので、迂闊に減っている(遅くなっている)状況で保険とかやり始めると・・・いや、自分は解っているから基本スマホはTwitterぐらいしか使わないので余裕がありましたが、父親は暇なときにスマホでネットサーフィンしているので、遅くなっているorz。ダウンロードがガガガ・・・んで自分も電脳オンチでござるから、今父親のスホマ弄りで詰んでいる状況。お助け電話もつながらなので、もういいわい。よその事を先にしまする、と日記に手を出した次第。
電脳は苦手・・・
なので紙の本を読んだ感想です。
古代では摂政は皇族の中で経験を積んだ皇位継承候補者か、あるいは皇位継承非予定者でも政治力がある人間が天皇の業務を代行する形で担当していました(聖徳太子の時代にはないよ)。
しかし人臣最初のの摂政藤原良房が就任した経緯は、幼い清和天皇の近親者に経験を積んだ皇族がいない。母后父の良房が政治首班を務めている。という条件が重なった為でした。基本的には天皇の外祖父、あるいは外舅(伯父叔父)にいる大臣級の人物が、天皇の政務を代行するもので、先の摂政の息子だからといって就任できるものではありませんでした。
ちなみに関白は藤原基経の時、即位した光孝天皇、その息子宇多天皇が本来は皇位に就く予定ではなく臣下に下っていたので天皇の儀礼を知らずに即位した為、その天皇の知識不足を補う必要があってなったもの。天皇に判断を仰ぐ要件をコントロールできる立場にありました。
そんな、本来できない筈の世襲が可能になったのは、皮肉にも臣下出身の母を持たず、摂関全盛期を終わらせた後三条天皇の登場からで、彼はともかくその息子の白河天皇は父親の遺言に逆らって皇位継承を行うのに摂関の助力が必要。んで時の摂関が早死にした為、その息子を養育して摂関に育てあげる事までしました。一つには退位した上皇が天皇の住む内裏に入る事ができない為、幼い天皇を主導する摂政がどうしても必要であり、自分と息子天皇(堀河天皇)との間を取り持つ為に摂関が必要だったと。
まぁその後、その摂関(藤原忠実)が白河法皇が望んだ婚姻政策に賛成しなかった為、彼を失脚させ、孫の後見を天皇家家長の立場から始めたのが本格的な院政の初めなんだそうで。
その後、保元の乱を経て成立した摂関家は分裂傾向になります。これは長男家が早死にし、その息子が政治的にも儀礼蘊蓄的にも無能であった為、その代替を次男家や三男家が担い、これに治承、寿永の乱で政権首班が頻繁に後退した事も絡み、摂関を担う家が三分裂したからでした。あ、もう武力を持った人間が政権首班的な時代になってきましたね。
五摂家が確定したのは鎌倉時代。お互いに摂関の座を食い合うのではなく、補い合うという発想が生まれて手打ちになり、複数の家があるとスペアができていいよね、という発想にいたった為みたい。
南北朝になると武家に接近した家が主導権を握る状況になり、事実戦国時代は近衛家なんか室町将軍家の婚家になり一心同体状態。んが、その頃はもう室町将軍の力は弱体しており、武家でありながら自ら摂関になった秀吉の登場で五摂家もこれまでか、と思われましたが、豊臣家の滅亡、そして政治から切り離された存在になった公家は、何もかもが政治的意味を失って朝廷における席次扱いになりましたとさ。
まぁそんな風に自分は受け取りましたが、さてどうなんでしょう。ご興味のある方はご一読下され。