pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

明日は入荷が多いです。

 発注かけたから間違いない。でも今日は午前中は、暇。なので日記は午前中に書いてしまいますよ。

 

  斎藤道三って有名なのですが、一次資料は他の大名と比べると少ない。ので研究もそこまで進んでいないのが美濃斎藤氏なんです。なんで有名になったかというと司馬遼太郎さんの『国盗り物語』前半の主人公として描かれ、大河ドラマで売れて『蝮の道三』が定着したという。大河ドラマの功罪を見るようだ。同時代人は道三の事を『蝮』とは呼んでいないのですよね。

 道三一代での国盗りではなく、牢人から美濃土岐氏重臣になったのは父親の長井新左衛門尉で、道三は斎藤氏家臣の長井氏から美濃守護代である斎藤氏になり、また美濃守護土岐氏当主を追放する事で美濃の国守になったと。

 戦上手な道三ですが、危機において力を発揮する人だったらしく、周りに敵をつくるような振る舞いを時としてしてしまうようです。それまで敵対していた尾張織田弾正忠家の信長に惚れ込み、彼の危機を助けるような事は嫡男義龍や家臣たちの不審を招いた事でしょう。更に義龍の弟たちを可愛がる事で義龍の危機感を結果として煽り、兄による弟たちの惨殺、自身の敗死を招きます。ただその采配を見て道三は「さすが我が息子」と評価したとも言えます。とことん戦時の人だったのですね。

 斎藤義龍という名乗りは彼の生前ではありえず、美濃守護家の土岐氏を超越する為に、時の室町幕府と縁遠くなっていた丹後一色氏(足利一門)の名称と、将軍家通字の『義』をいただく事により、室町幕府における家格上昇を図ります。また大名としての統治機構を整備し、織田信長との対立を鮮明化し、調略によって尾張国内を扇動していました。しかし三十三歳という若さで亡くなり、晩年の別伝の乱という禅宗妙心寺派内での勢力争いで片方に肩入れして騒ぎを結果として大きくしてしまった事が彼の権威を若干貶めてしまったような。

 十五歳で跡を継がなければならなかった龍興ですが、父義龍の整備してくれた家臣団が機能している間は織田信長の侵攻を退け続けますが、原因不明の竹中半兵衛安藤守就による本拠稲葉山城乗っ取りによってその権威が崩れ始めます。戦国大名は安全保障体制であり、家臣、国人領主は大名が自分たちを守ってくれる保障があるかぎり従いますが、一度自分たちの安全が不安視されるようになれば、より自分たちの身の安全を求めて他勢力になびきます。西濃の三人衆の裏切りを知った織田信長の、無謀ともいえる電光石火の侵略に対する間もなく、龍興・・・一色義紀は没落します。たぶん龍興は斎藤龍興と自ら名乗った事は一度もなく、敵対者織田家が彼を一色義紀と呼称しなかった為に、そして彼自身が織田家との抗争の中で亡くなってしまったので一色名乗りの呼称は後世に伝わらなかったのでしょうね。

 織田信長に対して最初に立ちふさがり滅亡した家故に、正当な評価がなかなかされてこなかった大名家ですので、研究が進んでいくのを期待しています。