pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

渡り奉公人の出世頭

 読了後の感想はそれでした。

 

 山内一豊って本人よりも『内助の功』で有名な奥さんのエピソードばかりが記憶に残っているのですが、ま、あれは明治期から戦時中までの「妻はこうあれ」という教育エピソードのせいですね。ご本人は父親が尾張上四郡守護代の織田伊勢守家に仕えたようですが、信長との抗争に敗れて没落。その後は長らく渡り奉公、つまり期間工とか契約社員的な立場で戦場働きを中心に生きていたようです。平たく言えば傭兵。

 立場が変わったのは秀吉に仕え、出世していく主人にくっついて、本人と二人ぐらいの家来だけでやっていたのが、いつの間にやら領主となり数百人クラスの部隊長に。特別武芸に秀でていた訳でなく、勇敢で戦傷も構わず戦うという泥臭いスタイル。たぶん生真面目。だから仲間内からは信頼されていたみたいな。ある敵と戦い手傷を負い、仲間と共同で首を取った時、結構な重傷を負ってしまったので仲間に取った首を持って行ってくれ、といいます。仲間内で相互に保証していたとしても、首の横取りは横行していたようなので、手傷を負った自分では取られてしまうと思ったのでしょう。そしたら仲間は彼の股の間に首を押し込み、お前の手柄にしろ、といったという逸話があるそうです。

 どうも関ヶ原戦の後、土佐一国の大名になるまで、山内家を存続させるつもりはなかったようです。奥さんとの間には一人娘しか得ず、しかもその娘は地震の建物倒壊に巻き込まれて亡くします。それなのに養子をとるとか、妾を置くとかしていない。大名になって、これはいかんと、慌てて甥を跡継ぎに定めますが、所帯が大きくなった山内家を存続させ、家臣の雇用を守るという事に思い至ったのではないか、といいます。

 それを読んで、あ、明智光秀本能寺の変の動機、これが大きかったのかも、と思いました。当時としては老境の自分。まだ十代で手柄を立ててない嫡男。自分が死ねば、その軍権、支配は召し上げられるでしょう。戦時中の織田家に戦闘指揮官として未熟な人間に万余の兵力を任せる余裕はない。そうなると明智家中の人間は再就職を迫られる訳で、どうも『家』というものに最大の価値を見出していたらしい(家臣にもその『家』を保証する文書を多く出しています)明智光秀としては、家族のみならず、家臣たちも没落して渡り奉公みたいな境遇になりかねない、というのも危機感を覚えたでしょうし。

 あ、そうして跡を継いだ甥の山内忠義の事を書いてない。本の分量としては三分の二はこの人の記事なのに。まぁ記録に残っている分量は忠義の方が多いですからねー。家臣たちの就職先である『家』の存続を考えると、主君となった徳川家に忠誠を尽くすしかない。その為には過剰な役目を背負い、頑張るしかない。それが長曾我部時代は九万八千石であった石高を二十万石に直した理由らしいです。徳川初期までは石高は家格を示すものではなく、前線部隊を率いて戦うものに多い石高を支配させ、兵力を動員させる傾向だったらしく、政権中枢の人間は地位が高くても石高は多くなかったようです。石田三成あたりは朝鮮出兵の時期、軍監として渡る予定であったので加増されたようで。

 ただその過重役は財政を圧迫させ、しかも禄高があがる訳でもないご時世なので、苛政か開発しかないので、領内の住民は過酷な状況になったようです。その為、忠義が引退を気に責任者が処罰された、みたいな。

 土佐は材木納品で奉公する形式が定まったのもこの頃みたいですねー。