pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

島津家の実態

 内容みっしりだし、ボリュームもありましたので読むのに結構かかりましたが、ようやく戦国期から江戸初頭の島津家について概要が解りました。

 

 『鬼島津』とか『九州最強』とかの伝説は、どうも幕末から近世にかけて薩摩の士族が最も日本史上で目立った時期に出来上がったものらしいですよ。同時代にはそういう記述はないし、また朝鮮侵攻での活躍から相手より『鬼』と呼ばれたのは虚言のようです。そういえば大陸で『鬼』は幽霊という意味で、オカルトになっちゃうもんね。

 戦国期島津家は半世紀ほどかけて分裂状態を解消し、島津義久を『太守』として重臣合議を諮問機関とし、この重臣合議で全ての話し合い、合意を得て政策を決定していたようです。しかし義久は傀儡とかではなく、自らの意向にそぐわない決定は再談合をさせ、また自らの意思を内々に重臣会議に伝える事で決議を左右してもいました。

 これは義久の専横ではなく家臣団の衆議のうちに家中の意思決定がなされたというコンセンサスを得、島津家中の団結した行動を可能にしました。室町中期から守護家専横→反発→守護家弱体→島津家の結束が崩壊し領主層が分裂、紛争状態、という状態が長らく続いた島津家の知恵が、こういう重臣合議制を選んだのでしょう。

 九州制覇の過程も、境目争論で味方の領主が助けを求めてきたから応じる。敵失を最大限に活かして勝利、というプロセスが大友家に対しても龍造寺家に対しても見られ、当主義久は慎重にも慎重に期するタイプ。慎重すぎて微妙な決断は神社の籤引きに委ねる傾向があります。もちろん自分の考えを反映させた籤引きなので仕組まれていますし、自分の決断が家中では少数派という場合に多用したようです。

 こういう意見のまとめ方は部下に意見を吐き出させ、納得させ、それが当主も公認しているという自己肯定が大きくなると思うので、島津義久の下、家中はまとまるのですが、いかんせん、意思決定に時間がかかりすぎる。自らの領国近辺の問題処理ならともかく、遠隔になればなるほど致命的になり遂には破綻するのですが、実は秀吉の九州征伐前から大友家との戦いで筑前方面か豊後方面か、どちらから攻めるかでもめていまして、義久が主導した筑前方面が勝ったものの戦果を拡張できず、損害も大きく撤退せざるを得なかった事から、その指導力に疑問符がつきます。本人も「もーやだ」みたいてな事を言ってますし。

 豊臣政権に対しては義久が頭を丸めて出家した事で当主代行となった弟義弘が表に出ます。義久は当主として帝王学を学び、一筋縄ではいかない思考の人物なのですが、義弘は重臣の一人として実行部隊の指揮官として最前線にいた人物であり、誠実であることが武士としての美徳と心得ている人です。つまり政権からすると扱いやすい。特に豊臣政権の効率的トップダウンの支配方式、全領国生産力の大名家把握、それによる軍役動員能力はそれまでの島津家にない強力なもので義弘はすっかり指南役の石田三成に絶大な信頼を寄せてしまいます。思うつぼ。

 財産全てを大名家に把握されるなど、自助自立が前提の世界に生きた島津領国の領主たちには受け入れられるはずもなく、また彼らの支持がなければ島津家支配など崩壊すると心得ている義久も、のらりくらりとごまかします。この点、誠実な義弘に島津家当主を変えようとする政権側にとっては好都合なはずでしたが、大陸侵略をもくろむ政権側からすると琉球王国との交渉チャンネルを持つ義久とその側近たちを処分する事もできず(琉球+明との交渉チャンネルという意味で)、また義弘も義久当主を否定するなど毛頭考えておらず(誠実だ)、島津家は時と場合によってトップが異なるみたいな体制でした。しかし政権に対する担当者として石高も確定できず、軍役も不十分な島津家体制は不面目の極みであり、朝鮮出兵では課せられた軍役(だいたい一万ぐらい)を結局満たすことができず(いつも三千人前後の軍勢しか動員できなかった)、活躍できた戦いも終戦間際の防衛戦のみ。ただ数倍の明・朝鮮連合軍を退けた戦果は大いに評価されましたが。

 関ヶ原の合戦においても島津家は軍役を満たす事ができず義弘、豊久の少数の兵に志願兵が加わるという弱体ぶり。どうも経済的な弱さは最後まで再建できなかったようです。琉球討伐も志願兵が結構いたし。ただ寡兵でも選択した戦術が派手な結果を残し、また家康に対して義久が交渉チャンネルを持っていた事、義弘の誠実さに感動していた東軍側豊臣大名が複数いた事で和平周旋チャンネルも複数あった事が領国保持での和睦という離れ業に繋がったようです。

 ちなみに義弘は義久生前は自らが当主と名乗る事はなく、義久死後、息子忠恒が義久婿という立場で後継者になっていたのが、奥方との間に子を儲ける事が出来ず、義久娘の奥方も了承済みで側室を娶った事により、忠恒の島津家継承の正当性が弱くなると判断した為、当主代行でしかなかったのに急遽「実は当主だったのだー」という事にして島津家当主の息子という立場を忠恒に付与したという・・・ややこしいですね。

 書く事一杯で普段の倍も文章を書いてしまいました。それぐらい島津家の事が解って面白い本でした。