pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

荘園

 考えてみれば歴史って政治史がメインで語られてしまって、まぁ記録に残っているものが圧倒的に政治に関する事が多いからなんですが、それよりも何よりも人が生きる事に直結する経済って、同時代の人々にとっては当たり前すぎて、特筆されないのですよね。だから帳簿とか、そんな記録を統計的にまとめて評価する作業が必要で、それをしていただけると、その時代の事が良く解る訳で、この本を読むと古代から中世までの人々の営みが寄り身近に感じられると思います。

 

 荘園という私有農園・・・とは違うか。一つの完結した領地とも言えるものは、そもそも私有地否定から始まった日本の律令体制が、天然痘の流行で人口が激減し、耕されない荒廃地が増えた事により、耕作意欲を掻き立てる為に時限つきでの開墾地の私有化を認めたのが『墾田永年私財法』で、それが荘園の始まりでした。なのでそもそも稲作に適したところは公田として耕されており、それを補完する形で耕地開発を担っていたとも言えます。んで新しく開発するには有利な条件がなければ手を出さない。私有地化だけでなく税の免除も欲しい。それをやりやすくするには権力者と結びつくのが早い。という訳で摂関家を始めとする大貴族の私領になっていたのですが、後三条天皇の荘園整理令によって、それまでゆるゆるだった荘園の申請が条件付けが厳格化して一旦収まるのですが、彼の息子、白河上皇が自身の建物開発やら何やらの財源として皇室財産として荘園を集積し始めて、その手法が開発予定地を中心に公田とかも含んで囲い込んでいくというもので、それまでの免田型、つまり税免除型の荘園から領域型、つまり今日的なイメージの領土化をしたらしいです。

 ただそれが進展したのも浅間山の噴火を始めとする自然災害により耕地が失われた事が契機であり、やはり再開発の意欲を刺激するものだったようです。

 やがて治承寿永の乱になると源頼朝が画期的な事をやります。それまで荘園を支配するものが経営する者を任命して、つまり中央の貴族が人事権を持って荘園を支配していたのですが、当初反乱軍として立った頼朝は、その荘園経営権を恩賞として勝手に部下に与えるようになります。筋を通すなら、後白河法皇を通じた段階で頼朝は中央の貴族たち、院に荘園経営者の任免権を返上しなければならないのですが、朝廷としては税が滞りなく納められれば誰がその任に就こうが、ぶっちゃけどーでも良かったので頼朝の任免権はその後も認められます。

 ここから荘園経営者=地頭に任じられた武士が、朝廷のコントロールから逸脱する素地ができる訳で(任免権を持っているのは鎌倉殿=幕府なので)、その後、中世最大の天候障害とも言える寛喜の飢饉などの災害を契機に税の免除を巡って支配者と被支配者の軋轢が増します。こう書くと「そーなんだー」だけなんですが、このころに有名な「御成敗式目」が制定されたと聞くと、あ、なるほど。『撫民』というのはイデオロギーとして起こったというよりも、それをしなければ社会の危機的状況を乗り越える事ができなかったから、という事なんですね、と納得しました。六月に積雪なんて、現代の温暖化が可愛く思えるほどですよ。まぁ問題の種類が違うかも知れませんが。

 基本的に荘園の歴史は、人災、自然災害などの災害が起こった事が契機として変化していきます。最後の変化は鎌倉末期から南北朝の戦乱の兵糧問題を解決する為の半済令で、これによって本来税を全て受け取る側の貴族や寺社などは際限なく手取りを減らされ、また水害などの災害を自律的に解決していく集落としての村落が荘園に代わって地域単位になっていきます。最終的に災害全般を乗り越える(戦乱も含む)地域権力として管理者から支配者へと荘園経営者は変化していき、それが郡域まで拡大したのが国衆、一国単位まで拡大したものを戦国大名と呼称し、荘園体制は終わると。

 ざらっと書いたけど、本人も良く解っていません(オイ

 また再読していきたいですよ、はい。