pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

酒を飲むと食べ過ぎる

 解ってはいますが葡萄酒ボトル一本干すにはつまみが必要な人なので~。昨夜はKFCを四ピース+コールスローM+ポテトMをはじめ、トマトビスク風カップヌードル+キュウリとワカメとカニカマの酢の物+ジャーマンポテトを少々+ヨーグルトという布陣でした。いつもはカップヌードルではなくパスタなんですが、カップヌードルの方が分量少ないからか、KFC四ピースという無謀も酒の力で平らげる事ができました。はい。食べすぎです。必然的に下り気味・・・いつまでも学ばない奴・・・

 そして読み終わったもの。

 

 時代、地域を追って状況と九州各地に残された城跡の解説がされています。一次資料の絶対量が少ないせいか、他地域では盛んな戦国期の研究がいまいち多くない・・・というか、江戸時代の編纂物や軍記物をメインにせざるを得ず、なんかどうも納得できないというか・・・なので九州地方の戦国時代の事が少しでも判ればいいなぁ、というつもりで読みました。収穫は、筑前豊前の国衆は身近な大勢力につくことを拒否する傾向にあるように見えます。大友氏への反発が、機会を得る度に噴出しているのはそういう事なのか?その為に北九州はあんまり安定しない。

 龍造寺家の急成長も、そんな北九州の不安定さが原因みたいですし、龍造寺隆信敗死で龍造寺家の権威、指導力が一気に凋落した訳でも無気力化した訳でもないらしい、と。秀吉と龍造寺政家の関係が研究されたら判明するのかなぁ。なんか龍造寺家ではなく鍋島家を選択した豊臣政権の思惑が解ると、大名家として鍋島家が成立した理由が解るかも。なんか一筋縄ではいかない印象。

 島津家の事は、いい研究報告があったからそれを踏襲されていますね。

 あと、あんまり詳しくないけど畝状空堀群という城の作り方は北九州の秋月氏が多用した方法らしく、どういう意図があったのか、判然としないけれども一つの癖として解りますですね。上空から俯瞰すると山城の裾に縦に何本も何本も執拗に溝が掘られているように見える。面白いですね。

 

 最近はオスマン・トルコとは呼ばないらしいです。オスマン帝国はトルコ民族の国家というよりも、イスラム教徒の国家というよりも、オスマン家が統御した地域というニュアンスが強いので。

 時代によって異なりますが、オスマン家の民族性も母方が奴隷である場合が多いので非トルコ人、非ムスリムの場合が多く、つまりヨーロッパ系。奴隷を教育してオスマン君主の家臣として要職に据えた時代が長いので、つまり支配層は非トルコ人であり改宗ムスリムの場合が多い。

 それから「酒飲みダメ息子」のイメージが強いスレイマン一世の息子セリム二世ですが、それまでの創業、先頭に立って働かないとアカン父祖と異なり、後方で部下を監督する立場になった君主の役割変更がなされた最初のオスマン君主だったようです。そして最盛期と称されるスレイマン一世の評価も変わり、セリム二世以後が組織的に完成された時代、つまり安定期だと評価されるようになったと。第一次大戦前夜までオスマンでは民族主義が前面に出る事はなく、オスマン国家とイスラムの下での『平等』で上手く機能していたみたいです。あ、制度疲労的なシステム齟齬は起こっていて、それでヨーロッパ列強に対して劣勢になっていきますがね。

 近代の考え方がオスマンを破滅させたとも言えますが、現代のトルコにおけるオスマンの評価も否定的なものから肯定的なものへと変化しているようで(トルコ共和国の建国はオスマン国家の否定、トルコナショナリズムによるものだったので)、現職大統領エルドゥアンはオスマン君主的な大統領を目指しているのかも・・・でもイスラムの下での『平等』がトルコナショナリズムと整合するのですかね?単に権威主義的な体制になるのですかね?お手本にしていたロシアがああなっているからなぁ。どうなるなぢゃろ?