pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

読み終え二冊

 三連休中は、別の本を読んでいました。同人誌の戦車のサスペンションについての解説本・・・さっぱり頭に入らなかった。まぁ車の構造が好きな人なら解るのでしょうけれども・・・自分に理解できたのは、その国の技術力、前提となる地形、気候によって戦車全体のデザインが変わり、それに対応したサスペンションが開発、使用されているって事、ぐらい?

 で、それとは別に読んだのはこっちの方。

 

 2017年の大河ドラマで注目されて、そして一気に研究が深化した印象ですが、そもそも『井伊直虎』の現存資料がとことん少ない。しかしそれが『井伊谷徳政』と呼ばれる政策が実際に実施される状況に関わっているので、室町時代の徳政がどんなものなのかを理解する上で重要なのだそうです。

 そして冒頭にとっとと、井伊直虎は女性ぢゃないよ。桶狭間の戦いで戦死した井伊直盛という井伊谷の国衆の遺児である女子に婿入りして家を継ぐことになった、今川家御一家衆関口氏経の息子です。と証明されています。江戸時代にこの直虎の幼名『次郎法師』が直盛女子の名前と誤解されて、そのまま直虎女性説になったみたい。まぁ前近代、それも戦国期以前の未婚の女性の名前が残るって、出家して尼として高い地位に登った人以外は、あんまりないし、武家の女性も既婚で夫に先立たれて息子が若い場合に、当主代行、家長として残るぐらいで、基本的に家政、つまり内向きの仕事をやるのから資料に残りづらいです。

 さてさて井伊直虎くんですが、どうも年若い入り婿で(十五歳ぐらい)、つまり井伊家家中での影響力など、戦国大名今川家の名門という実家の実父の、つまり七光りぐらいしかない状況。んで、徳政自体はその上位権力である今川家から永禄九年に起こった災害に対応する為のものとして発令されたと。これは畿内から東海にかけて、当該期の大名もそれぞれ出しています。信長も出していた。徳政って平たく言えば借金帳消しです。これがなんで災害対策かというと、当時の農民は一部の富裕者を除き、その富裕者や納税対象の武家から種籾を借り、収穫して年貢を納める時に、その借りた種籾分を利子をつけて返すという者がほとんどで、つまり、借金棒引きしてくれないと農家が食べる分が残らないという奴。

 しかし農村存続には必要と解っていても、貸したものが返ってこないとなると、その武家や富裕者も貧窮してしまう。だから抵抗しますわな。そのせめぎあいが文書として残っている。その中で、最終的に井伊谷領に徳政を発布する書類に署名しているのが、井伊直虎の現存する唯一の資料だといいます。

 このやりとり、面白いというか、貸した側が何とか自分の債権の内、譲れないものを守ろうと今川家本体と交渉していたり、一刻も早く徳政を発布して欲しい側が、裁許が混雑していて一向に下らないと、やきもきしているさまが良く解ります。当事者主義の当時にあっては、訴え出る費用は全て当事者持ちで、駿府まで出向いている代理人の諸経費は当事者が払わなければならない。裁可をもらったらもらったで、骨折りしてくれた家中の人間(武家)にお礼代を渡さなければならない。それらの出費を見込んでも、年貢、借金の棒引きを勝ち取ろうとしているのですよね。

 しかし、そんな当事者がやっとの事で勝ち取った徳政も、発布前後で徳川、武田の今川領侵攻が始まり、発令主体の今川家が没落してしまったので元の木阿弥に。井伊谷は徳川領となり新たな支配者が決められ、そして井伊直虎は亡くなったか、没落したか、いずれにしても資料上から消えました。ちなみに有名な徳川家臣井伊直政は井伊家庶流で、家康配下から頭角を現したので、直接の関係はないみたいです。

 女領主の伝説から膨らんで大河ドラマにまでなりましたが、実際のご本人は、時代の波に翻弄されて消えていったその他大勢で、たった一つの署名文書と関連文章が残った為に、そしてこの時期を境に急速に減少する徳政の経緯を研究する好材料として評価された事で、名前が残った、って感じですかねぇ。

 もう一冊はこれ。

 

 その名の通りです。鎌倉討幕期から南北内乱期の信濃国の概観ですかね。北条家支配が浸透していて、その影響で『中先代の乱』の主力になり、敗退した後、足利氏が許せない面々は南朝へ、これを期に勃興しようとする面々は北朝方へ。しかしそういう戦いも他の地方では北朝南朝を圧倒するのに、この地ではどちらも相手を圧倒できず、足利義詮の降伏勧告政策で次第に室町幕府に帰属していった、みたいな感じですかね。

 こっちが駆け足になったのは、自分的に新しく知った事がなかったからで、それでもいつもの日記の二倍の分量になってしまいましたね。明日に譲ればよかったかな?