pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

マリというキャラが好き

 ようやくBDが出ましたので、世間の皆様より二年弱遅くシン・エヴァを見ました。

 

 TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』をリアルタイム放送でおっかけていた訳ではないです。評判になってから後追いで見始めて、キャラデザの貞本さんが好きなので漫画版を読んで、TV版ラストの不評とかも、時間に追われていてああなったと思っていましたね。まさか意図してやったとは。しかし劇場版を見ればそんな感じもします。表現方法がアングラ劇団的に感じていました。

 『包帯少女』として綾波レイが人気になり、シンジやアスカのキャラ造形、ミサトやリツコ、碇指令といった大人たちの造形もそれまでのアニメとは一味違う感じ・・・少年少女が主人公のアニメですが、ああまで彼らを子ども扱いとユニット扱いで揺れる表現というのもなかった気がするけれど、自分は例えばシンジに対して共感する事は出来ても、痛々しくは感じるけれども好きとは違うし。レイやアスカに対してもそんな感じでした。ストーリー的にも「どう始末ほつけるのだろう?」には興味はあったけど80年代からある人類滅亡もののパターンとしか感じていなかったかも。

 たぶん画像の美しさや演出が好きだったのでしょうね。だからTVアニメ版は気に入らなくて新劇場版の方の円盤を買っているし。

 そこに飛び込んできたのがマリというキャラでして、明らかに登場人物の中で異質です。軽口や鼻歌をしながら戦うしノリも軽い。しかし他人のこと、シンジやアスカの事を気遣う事もできる。しかしその存在は謎。貞本さんの漫画版では冬月ゼミの一員で、碇ゲンドウやユイと同時期に属していてユイに憧れる『天才少女』として描かれていましたが、今回の映画版でも冬月を「先生」、ゲンドウくん、ユイさんと呼称し、冬月から「イスカリオテのマリ」と呼ばれていましたね。たぶん響きが良かったからで深い意味はないのかも知れないですけれども、「イスカリオテのユダ」を連想すると「裏切者」というイメージが付きます。なにやっとったん?

 自分はやっぱりシンジに幸せになって欲しかったのですが、その時、傍らにいるのがレイでもアスカでもない、マリであった事を考えると、かなり救われた気分なんですよね。レイやアスカではシンジは前向きに明るく生きていけない気がするので。

 自分の解釈だとマリって平行世界を飛び越えて存在する人ではないかと思ったりして、よりよい結末を探して、そこへ至る為の手助けをしていて、あの父母から生まれて望まぬうちに人類の未来の決定権を握る事になってしまったシンジに同情というのか愛着というものを感じているのではないかと思うのですよ。そういえばマリってやたらとシンジの体臭を嗅ぐのですよね。これって碇シンジという個体を確認する為の動作なのかも知れないなぁ、と。

 今までエヴァのシーンを反芻したいと思った事はなかったけれども、シン・エヴァのラストは何度も見たくなって、このシーンにたどり着く為に劇場版の円盤を連続して視聴したいと思うのですよね。マリ、ありがとう。シンジと一緒に駆け出してくれて。

 あ、今週の『ど家』。まぁ西郷の局の描き方としては、ああなるしかないのではないかもね。古参の側室でも次女しか生んでいないし、ジェンダー的な理由っていうのが昨年の実朝くんの例もあるのでお手軽感もありますが、まぁ妥当かな、と。でもそういえば家康の子供たちって同母兄妹が多くないのですよね。側室だから義務でいたしていたのか、それとも移り気であったのか、その辺は解りませんけれども。今回のドラマの家康君のキャラ造形からしたらああいう展開にするしかないかなぁ、と。

 そして来週、今川家が武田、徳川から挟撃される展開になるんですな。北条エピソードは家康とは関係薄いからすっ飛ばされるのかな。どうかな。