pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

先週の『ど家』を見て

 まぁ借りてみようと思ったのですよ。

 

 もはや石田三成の評価は「律儀」「大義に殉じる」「能吏」という感じで定まったみたいなんですが、しかしあまりにも秀吉に近すぎた為に、その意思を忖度しがちな集団に含まれてしまったが為、朝鮮の最前線で戦った武将たちを誹謗する形に。その為、秀吉子飼いの武将たちと対立してしまったのが、関ヶ原の遠因とも言える訳ですが、一方で実務を統括する五奉行、それに権威、武力による支援を行う五大老という集団指導制を指向した三成たちと、単独で豊臣政権を主導しようとした家康との対立って感じもあります。

 その一方で西軍となった武将たちにも様々な思惑があり、政権指南が三成や奉行衆であったので、その人脈上での権益拡大を図ったもの。家中統制で家康と対立したもの。そういう人たちの集合、みたいでした。そして三成たち奉行が「内府ちがいの条々」という家康を豊臣公儀の『公敵』と宣言した檄文への反応は少なく、つまり各武将たちは公儀の為、ではなく自身の利益、思惑、感情を主に判断しているって事ですかね。

 つまり三成がいかに公共の為、秀頼天下の為と言おうとも第一は自らの家中の利益であり、江戸時代後期以降のような「国の為」という観念には乏しかったという事ですかね。

 あと以前にも感じた事ですけれども、東軍、家康は明確に自ら対して決起した三成ら奉行衆と政権手動を争う目標があった訳ですが(公敵宣言されてヤバかったが、自派の武将たちの奉行衆への反発は強かったので問題にならなかった)、西軍の方は打倒家康をかかげる奉行衆に大軍がなく、最大軍事力を持つ毛利家が家中の意見統一がされていない・・・というよりも和戦どちらに転んでもいいように、という主体ではなく第三者な立場に立った事が致命的だったかも知れません。これは仕方ないのかな。輝元の統率力は家康の比ではなかったし(創業カリスマの家康と創業者の孫で後継者問題で家中の対立がくすぶっている輝元では、ね)、創業者の遺言、家訓が「天下を望むな」だったから、どうしても生存確率を最優先にしてしまう。結果として中途半端なかかわり方となり、生き残れはしたものの、不面目というか何というかって結果に。

 やっぱり三成の資料って、どうしても関ヶ原に結実していくのですね。

 あ、やはり小早川秀秋は決戦前に東軍加担を決断しているみたいですね。本人がどうこうというよりも家中の決断として。やはり岐阜城陥落が事実上の分かれ目っぽいです。岐阜城の攻防が長引いたら、西軍から東軍に鞍替えする武将は減っていたかもね。