それを保つことが江戸時代の、共同体の指標だったようです。
表題の『壱人両名』ってなんやねん?って話なんですが、一人で二つの名前、二つの立場を持つという意味です。基本的に現代で言う戸籍の役割を果たした宗門人別帳(非キリスト教徒である事を証明し、どこのお寺さんの宗派に属しているかを記載する名簿)というものが庶民にはありまして、それぞれ支配を受ける共同体別に管理されていたので自ずから、個人の名前、出自を証明するものとなりました。例えば農村だと領主毎に管理されており、同じ村に住んでいても年貢を納める対象が変われば「支配が違う」という事になります。江戸時代はこの年貢をいかに遺漏なく収奪するかが発達した時代でして、いいかえると規定年貢を納められないという事は大変な問題でした。何かの事故、飢饉や疫病など共同体全体が被害にあう場合ならともかく、個人的なトラブルで年貢を担う百姓家が減るというのは問題です。共同体で担う年貢額が決まっているのですから、構成員が減れば一家あたりの負担が重くなりますもん。
なのでこの百姓家を減らさないようにするにはどうするか。その家、農地を引き継ぎ経営してくれる後継ぎを用意しなければならないのですが、無職の人間を引っ張ってくる訳にはいきません。問題なのは年貢を納められる能力なのですから。となると裕福な、別の稼業を行っている人間をもってくる事になるのですが、そういう人間は別の支配、共同体の重要な構成員です。そっくり移ってしまったら、今度はそちらの共同体が困ってしまう。ではどうするか?表向き別人という事にしてしまえば問題ない。年貢さえ収められるなら。という事になります。これが壱人両名。
こういう事は年貢問題だけではありません。武士や公家、寺社などの支配層の部分的な儀礼、修繕などを担う為に、その行為の時だけ苗字帯刀を許される庶民もあります。脇差は庶民にも許されていましたが大小弐本差しは士分以上にしか許されていませんでした。ちなみに士分とは支配層に仕えている人で、必ずしも武士とは限りません。こっちは合法ですけど。
なんの問題もなければ、そのまま処理されます。本来は違法ですが、トラブルさえおきなければ支配層も見て見ぬふりをします。問題視して壱人両名を罰しても年貢を納める者が減るだけですもん(だいたい追放刑と相場は決まっていたので)。
ただし、富裕で有力な立場なものが多いですから、我を通してトラブルを起こす場合もあり、そうなると表ざたになり発覚したなら支配者も処罰せざるを得ない。そういう事のようです。いずれにしても個人単位で経済的に自立できる現代とは異なり、『家』単位での存立が前提で、白黒はっきりさせるよりも平穏無事に問題なく過ごす方が合理的と判断された時代の形態ですね。