pomtaの日記

だいたい読書感想か映画感想です。たぶん。

ネタ切れてる

 昨日、最終章を読み切る前に返却した本があったのですよ。アジアの近現代史について書かれた本だったのですが、モンゴル帝国から始まり、こちらが知っていること、あるいはアップデートされたことが書いてあったので、まあ読み切れなくてもいいかぁ、と思ったのですよ。しかし表題の分野になっていくと、あ、なるほど、という記述が増えていき、現代にあたる終章が期待できる・・・と考えた時にはもう返却の時。延長すればよかったかな。ちともったいない事をしました。また借りよう。

 今読んでいるのは中国三国時代の周縁、つまり三国志に『蛮族』と記された人々について研究された本です。最近は中国本土だけを考えていては発展というか発想が止まってしまうって感じらしいですね。

 最近だったか中公新書南北朝、隋、唐と各時代をとりあげた新書が出まして、それが中国だけでなく北のモンゴル草原の勢力まで含めて考察されていて、北朝のみならず隋や唐が遊牧民勢力と漢族が融合して成立、運営されていた説明がされていました。そうすると視界がユーラシアの北側に開けた感覚になりましてね。なるほど、中国だけ見ていると長安は西に寄りすぎていますが、西や北まで視野にいれると長安が政権拠点である事に重要な意味がついてくるなぁ、と。洛陽に首都が移されると、東南方向に興味が向いている事がはっきりします。水運を使うと東や南へ行きやすいし、長安では西に寄りすぎている。そんな事も考えたりしたり。

 だから今回も読み終わったら新しい見方が増えるのではないかと思ったりしたりしています。

 んで歴史絡みで時事ネタを見るとですね、大企業とか公的機関や政治家の隠蔽体質って百害あって一利なし、だよなぁ、とか思う訳で、こういうのって無謬主義とか「恥を知る」とかからくるのではないかと思ったりしたり。日本の歴史において中世は大飢饉時代で、それを乗り越える為に惣村と言われる地方自治が生まれる訳ですが、共同体が属する人々の面倒を見るから、共同体の為に犠牲を許容する考え方が二十世紀まで続いてきたと思うのですよ。つまり、この件で責めを負っても、共同体がどこかで補填してくれるから引き受けるみたいな。しかし江戸時代に儒教の思想が農村にも浸透すると、忠義が無償で期待できるものと誤解する連中が増えてね。んで立場の弱い人間に歪みが集中して、隠して、バレると切り捨てられる。補償はない、みたいな地獄のサイクルが生まれる訳で・・・はぁ。んで証拠になるような書類は処分してもうて、やらせた奴は知らぬ存ぜぬするのね。これは未来に対する罪だと思うな。将来同じような問題が起こっても、それに対策する資料がないから、同じ間違いを繰り返す可能性を高めてしまう。

 自分、歴史を振り返るとイギリスのこと「ブリカス」って思う時がままあるのですが、割と苦笑いで「ブリカス」って思うのですよ。何故なら、彼ら、自分たちに不利な事でも割と記録に残す傾向があるんですよね。だから三枚舌外交とか発覚するんですけれども。戦争中の書類を焼却処分してないないしてしまったどっかの国どもの役人よりもマシな感じ。研究者が分析、考察できる余地があるので。

 キレイ事、口にする人間ほど、都合の悪い事は処分していると思うのは、ギャップの印象が強いからですかね。いつもの事ですが、まとまりのない文章になっちまいました。